「自分を鍛える」高1、お寺での修行(その3)

 2時間の朝のお勤めが終わるとすぐ「清掃」が始まる。後ろにいらしたおばあさんたちも修行僧たちにまじり一緒に約30分間掃除をする。

 

 私は本堂の縁側(濡れ縁)の雑巾がけを命じられた。雑巾をしっかり絞り「トントントン♪」とテンポよく雑巾がけ。小学生の頃、木造校舎の廊下を競争しながらした以来の雑巾がけだった。この久しぶりの雑巾がけは、思ったよりも大変だった。本堂の縁側は見た目より広い。思った以上の面積だったのだ。また汗がふき出してきた。それでいて手にトゲが刺さり、チックとする。注意してやらないとケガをする。

 15分ほどで雑巾がけが終わり、次は庭の掃き掃除。竹ぼうきで落ち葉などを掃いていく。本堂、講堂、鐘つき堂、宿坊、庭。かなり広い。7月は落ち葉が少ないので助かるが、11月下旬以降の落ち葉との闘いが思いやられた。

 この日、庭を掃いていた時に私は「注意」を受けた。初めてでわからないことだらけなので、事あるごとに私は近くにいるお坊さんにそれを聞く。ここに早く適合しようとするあまり、質問しまくっていた。すると年配のお坊さんが私をにらめつけながら「人のやっているのをよく見てやりなさい!私語はダメ!私語を慎むように!」と強い口調でおっしゃった。「あ、ハイ。すみません。」と頭をさげた。質問も私語になっちゃうのかぁと下を向いていた。「清掃」も修行のひとつ、私語は厳禁。なるほどなぁと思った。庭のどこから掃くか?どの方向に掃くか?他の人の行動をちらちら見ながら、黙ってただ黙々と竹ぼうきを動かし続けた。

 

 7時半、清掃がおわり朝食になった。掃除の時間帯に調理当番の修行僧2名が食事を作る。板の間にひとり用の高足のお膳が2列、2メートルほど離れたむかい合わせで並んでいた。私のお膳はそこからさらに下がった下座にぽつんとあった。一汁一菜の精進料理だったが、私は僧侶ではないということで肉や魚の肉食(にくじき)が一品追加されていた。したがって私だけが一汁二菜だった。ありがたいなぁと思う反面、なんとなく申し訳なかった。合掌して頂く。

 「あれぇ~、ん?、う~ん?」

お膳を眺めていた。白米に目が止まった。茶椀に盛られたごはんをよく見ると、白いごはんの中に何かが入っている。炊き込みご飯ではない。チャーハンでもない。白いごはんだ。「何だろう?何がはいっているのかなぁ?」それはごはんに交じって入っている。お米の粒に似ている形だがひとまわり小さくて細かった。色も似ているがお米ほど白くはなかった。

 

「何だろう?」と思いながら食べてみた。タンパク質のような、油のような・・・。お米ではないことは確かだ。でもまずくはなかった。あえてたとえるならば、長野県の特産物の「ハチの子」に近い。それが一膳のごはん茶碗に7つ8つは入っていた。

 

「これはなんだろう?」

 

 不思議に思いながら食べ続けた。慣れてくると何となくおいしくなってきた。おかわりまでした。でもそれがなんなのかは全くわからなかった。食事も修行のひとつ、私語は厳禁なので聞けなかった。

 後日、一人の修行僧と世間話をしていた時に何気なくそのことを聞いてみたら教えてくれた。ついにその正体がわかった!がしかし、知らない方が良かったと思った。知らなければよかった。世の中には、知ることよりも知らないでいることの方が良いということがある。これはまさにそれだった。知って飛び上がった。「うッ!」となって息が止まり、顔から血の気が引くのがわかった。ゾッとした。

(つづく)

 

 

 

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2020年

8月

11日

外山滋比古先生が逝かれました(追悼)2020年8月11日

 

 

 東京都文京区小石川のご自宅から勤務校のお茶の水女子大学まで徒歩で行かれる。所要時間は約7分。春日通りの横断歩道で信号待ちに引っかかれば、私のチャンスは約1分増える。

 

 秋に行われる寮祭の主催学年である私は、寮のOBである外山先生にカンパをお願いしようと考えていた。1985年(S60年)の秋、今から約35年前のことである。

 

 我々の学生寮は、愛知県の三河地方出身者が入寮する「三河郷友会」という学生寮である。出身地が同郷のため、全員がネイティブの三河弁だ。その三河寮の2階の洗面所の窓から眼下に目をこらし作戦を練った。

 

 平日の朝は、同じ時間、同じ道でお茶の水女子大学に歩いて行かれる。その歩くスピードはびっくりするほど速い。歩くというより小走りに近い。ほんのわずかな時間で私の視界から消えてしまうのだ。この建物の二階の窓から、何度も何度もそのお姿を拝見した。

 

 私は外山先生を「小さな巨人」と呼んでいた。身長が低かったことからそう名付けた。今思えば大変失礼な話だ。小さな巨人は、背広姿に大きな黒いカバン。そしてインパクト満点の黒ブチの眼鏡。「知の巨人」は小柄だった。

 

「外山先生、おはようございます。お急ぎのところ、すみません。ちょっとよろしいでしょうか?」歩行者用信号が緑の点滅から赤になった。

 

 「三河郷友会学生寮の寮生の高原と申します。おはようございます。実はもうすぐ寮祭ですのでOBの方々にカンパしていただけたらと思い、礼を逸してることはじゅうじゅう承知しておりますが、意を決してお願いにあがりましたぁ。」

 

 勢いが肝心だと思い、淀むことなく、大きな声で、先生の目を見ながら力を入れて申し上げた。 

 

 1983年に刊行された「思考の整理学」は、その年の大ベストセラーだった。大学生協で平積みされた単行本は、口コミも手伝って月が変わるごとにその販売面積を増やしていった。

 

 『学校教育はグライダー人間を作りすぎ。自分のエンジンを搭載し自分自身で飛べる飛行機人間を育成すべきだ、その目的に対して最も大切なことは思考力というエンジンだ。そのエンジンを持たなくてはならぬ。そのためには考えるということを大事にしたい。考えて思いついたアイデアはカードに書こう。そして発酵するまで待つべし。

 

 起床後からお昼までの午前の脳の活動は思考活動にはもってこいだ。無我夢中、散歩中、入浴中の三中は思考には最適。etc・・・』

 

 数年後には文庫本となった。いつしか大学生の必読書のランキング上位となった。甲子園で活躍した根尾選手が2019年の秋、中日ドラゴンズにドラフト1位で入団契約した際、愛読書を問われ、外山先生の「思考の整理学」と答えたことで大きな話題となり、彼はは大いに株を上げた。

 

 「三河寮ですかぁ。はい、わかりました。今お時間、ありますか?」

 

「もしあるんだったら、このまま私の研究室まで一緒においでん。来れる?急いどるもんで、時間がないんだわぁ・・・」

 

 「えっ!!研究室??」

 

 お断りする理由などあろうはずがない。コテコテの三河弁の先生のあとをノコノコとついて行った。

 

 お茶の水女子大学の先生の研究室に、恐る恐る足を踏み入れたあの緊張感と幸福感。「ハイっ」と渡された寮祭へのカンパ。両手で押し頂きながら拝受した。

 

 もちろん先生のご自宅の住所、所在は知っている。わが学生寮のご近所。しかしご自宅にお伺いすることは絶対にしてはいけないと思っていた。執筆などのお仕事の邪魔をしてはいけない、筆を折るような野蛮な訪問は決してできない。先生の書斎から綿々と生み出される研究成果を阻害するようなことは絶対にできない、許されない。思案の末、「徒歩での通勤途中」にお声をかけさせていただくことを決定した経緯などについて申し上げた。勢い余って「思考の整理学」と「省略の文学」の、自分なりの書評をも生意気にもお伝えしてしまった。蛇足だった。でも先生は黙ってうなづいておられた。笑顔だった。目がやさしかった。

 

 私はとてもハッピーだった。カンパをいただけたからうれしいのではない。カンパを頂くというミッションを完遂した上に、尊敬すべき偉大な人物の許しを経て、大学のご自身の研究室である「聖域に入ること」ができたことが、恐れ多くもうれしかったのだ。強烈なカタルシス(魂の浄化)があった。

 

 先生はいつも微笑んでおられた。愛知県の西尾で生まれ、大学生として上京されてからはずっと文京区小石川で生活された。そうして年月が過ぎ、300をこえる著書が刊行された。そのどれもが輝きを失わずに、新鮮で鮮烈な閃光を放っている。どれを読んでも面白い。借り物ではなくオリジナル、古くなく新鮮。本物だからであろう。

 

 近著では「三河の風」(2015年展望社)は特に素晴らしい。明治維新後、愛知県三河地方は明治政府から冷遇された。徳川家の発祥の地だからだ。地元民は政府に頼ることなく、自力で、自分たちだけでやっていこうという独立独歩の気風、風土が醸造されていった。その中で自分らしく、かたくなに生きていくことを学んだ。その生き方は、あたかも蚕(かいこ)に似ている。三河地方は養蚕が盛んな土地で、農家は屋根裏で蚕を大事に育てた。蚕に「お」をつけて「お蚕さん」と呼んで大事にした。蚕は桑の葉を食べて白い糸を吐き、繭(まゆ)を作る。色のついたものは色あせるが、白い繭は色あせることなく純白の糸となる。だから「蚕のように私は生きていきたい」という、「三河人」外山先生の強い信念に、共感を覚えずにはいられなかった。

 

 また健康維持のため、皇居一周約5キロを、ご高齢にもかかわらず毎日散歩される外山先生のテレビ番組を数年前に見た。たぶん「三中」の散歩に違いないと思ってそのお姿をテレビの画面越しに拝見した。その先生が2020年7月30日、胆管ガンで亡くなられた。享年96

 

 今週はお盆がくる。先生にとっては新盆だ。わたしは自分の塾で夏期講習の授業をする。中学生の夏期講習用の国語のテキストの問題文は、長田 弘(おさだ ひろし)、小此木 啓吾(おこのぎ けいご)、串田 孫一(くしだ まごいち)など、そうそうたる方々の文章だが、この30年間、学習用のテキストや大学入試の現代国語の問題文への登場機会ダントツのトップは言うまでもなく、外山先生だった。そしてこの先の30年間もたぶんそうあり続けるであろう。知の巨人は死なず、永遠なり。

 

先生、お世話になりました。

先生、本当にありがとうございました。

先生、同郷人として誇りに思っておりました。

先生、これからも今まで以上に先生の文章を精読していきたいと思います。

 

ありがとうございました。

( 合 掌 )

 

2020年8月11日 記