「宿題とは何か?」ということを高校の教員になってすぐの頃、本気になって考えた。約30年ぐらい前のことだ。それまではほとんど考えたことがなかった。しかしその時は宿題のことでかなり悩んでいた。保護者からのご意見で「宿題を減らしてください」があれば、今度は逆に「宿題をもっと出してください」もあった。小学生でもあるまいし・・・と思ったが、いや待てよ、これは意外と核心をついているかもしれない、深く考えてみようと思った。
宿題って、いったい何なんだろう?
小中学生は、年度末の春休みは基本的に宿題がほとんどない。夏休みはたくさん宿題がでる。たくさんと言っても毎日少しずつやれば3週間ぐらいで終わる分量だ。そして約40日間という時間を生かした自由研究や工作などの「長期じっくり型」の宿題も可能だ。それに対して冬休みは期間が短い。年末年始の年中行事に関連した書初めなどが宿題となる。
教員時代に私が悩んでいたのは、夏休みなどの長い休みの時の宿題ではなく、学校へ毎日通う通常の学校生活での「家でやるべき宿題」だ。勤務校の実情に合わせて臨機応変に対応させたが、この悩みの原因は、宿題を出す側の立場、宿題をやる生徒本人の立場、保護者の立場という3つの立場が存在することから来ていると思われる。
さらに親の学歴や教育観、生徒の家庭学習習慣の有無、学習単元の内容の難易度、分量、宿題の目的や効果など、「各々の立場での宿題の定義」の範囲が広いことも関係するが、「外部からの強制力」を持った「宿題」は、学習者の主体的、自立的な学習とは距離があるのではないかと思う。
そのことを頭の隅に残して、3つの立場をひとつずつ見ていこう。
まず保護者の立場の考えは「勉強する習慣をつけさせたいので出して欲しい」という意見が圧倒的に多い。しかし「うちは習い事が多いので、極力宿題は出さないでください。」や「学校の宿題では対応できない特殊な受験を考えているので余分な宿題は出さないでほしい」などもあった。また、先生は宿題を適度にうまく出してくれるので良い先生、という短絡的な評価が多いのも問題がある。つまりうまく宿題を出してくれない先生はあまり良くない先生ということだ。一般論として、学習の初心者は宿題がないと勉強しない。だから親は宿題を出して欲しいと切望する傾向が強い。
次に宿題を出す側の立場で見る。大きく3つある。
1つめは、ひとつの授業の中での授業構成要素の演習が宿題で出される場合だ。この宿題はあくまで授業の一部である。演習である。やれる生徒とやれない生徒に分かれる。教師としては生徒の理解度の大雑把な把握をしたいのである。次の授業までに教師は授業パターンをいくつか想定しておき、次回の授業の開始直後に生徒の宿題を見せてもらう。生徒の理解度を確認し授業内容を具体的に決定する。この宿題は授業のひとつとして大きな部分を占めている。ところが親や年長の兄弟がその宿題を手伝ってやってきた場合は、生徒の理解度がはかれないため、結局授業をどこからスタートさせるべきか分からなくなってしまう。「手伝わないでください」と言っても親は分かってくれないことが多い。
2つめは、宿題を出すのはOKだが「宿題を出しっぱなし」にはしたくないという教員サイドの本音がある。宿題を提出物として提出させるのか?させないのか?、もし提出させたなら提出後の取り扱いはどうするのか?、提出課題は評価の対象にするのか?しないのか?などだ。教師としては、宿題の後処理をどうするかをまず決定し、それから何をどのくらい宿題として出すかを考える。この一連の流れの中で教員としての姿勢ややる気が垣間見える。
また提出された宿題の出来ばえ、〇付け方法の良し悪し、誤答だった箇所の正答の記入とその後の解き直しや検討、研究などの「振り返り」がやれたのか?やれてないのか?さらに「振り返り学習」の後に、自力では解決できなかったところを先生に質問したのか?分からなかったことが分かったのか?解決したのか?。この勉強の「後始末」ができたのか?完了したのか? 先生に質問にくる生徒の、その質問項目の整理のされ方、指導者への質問するタイミングなども、学校の先生が「生徒に下す評価」の大切な項目である。
3つめは、とりあえず宿題を出すが、出すだけの宿題。教師としては何も考えず「はい、宿題です。やっておきなさい」というだけの宿題。宿題を出した後のことを全く考えない宿題。出しっぱなしの宿題。親の要求を満たすためだけの宿題。でもこれも宿題なのだ。
「宿題を出してください」と保護者からお願いされた瞬間に、今述べた3つのことが教師の頭の中をよぎる。このことを保護者の方々はあまりご存じないように思う。
さて今度は宿題をやる立場、つまり生徒の立場で考えてみよう。
基本的に人間はめんどくさがり屋である。何をするにしてもめんどくさい。めんどくさいからやらない。やろうとは思わない。なぜやらないのか?それはめんどくさいからだ。このような堂々巡りがおこる。成長する過程でめんどくさくてもやらないと物事が片付かない、先に行けない、前進できない、生活が乱れてしまうということを気づいた者が、めんどくさくてもやらないといかん、と自分を律する。これではいかん、ダメだというダメ出しが自分で出来るような「気付き」が欲しい。しかしその気付き、学びがない者が宿題をやるのは重労働であることこの上ない。その前提を頭の片隅にのこして宿題をする側の立場の生徒を見てみたい。
学習者のレベルを大別すると、まずはじめは「家庭学習の習慣を身につける段階」、次に「学習習慣がほぼ身についている段階」、さらに次の「成績上位を目指す段階」、そして「成績上位をキープする段階」と四つに分けてみる。
もちろんその上に存在する「難易度の極めて高いテストを目指す段階」や、さらにその上の「研究者を目指す段階」など、上には上があるがこの上位2つは、ここで論じている強制力を伴う「宿題」の範囲を超越しているので、論議から除外する。
ひとつ目の「家庭学習の習慣を身につける段階」の生徒は、基礎基本の「反復学習」としての宿題が非常に効果的で、小学生の4年生までに家庭学習習慣を確実に身につけさせたいので、学校の宿題は有効である。しかし家庭内教育、保護者の子供への教育力が高い場合は、学校の宿題に頼らなくとも学習習慣を養成できるであろう。どちらにせよ頭脳労働的な宿題ではない作業労働的な宿題で、反復学習が主体のドリル学習が望ましい。
第二の「学習習慣がすでに身についている段階」の生徒は、「わからないをわかるに、わかったら自力でできるに」という目標をクリアさせるための宿題が望ましい。学校の宿題はその目標を達成するための「精選された教材」を宿題とすべきだが、どこがわからなくて何ができないのかを指導者が把握しやすい教材が理想的だ。そして指導者がそれを把握したら、「わからないをわかるに」、「わかるをできるに」したい。それに見合う教材、課題がほしい。片づけ仕事のようなものではない精選された教材を宿題にしたい。教師は生徒観察を怠らず、理解度の見極めをしっかりしなければならない。それを怠ると教材や宿題がセレクトできないという悪循環になる。
第三の「成績上位を目指す段階」は、わからないことはほとんどないが、テストで点が取り切れず、この点数では不満だ、じゃあどうする?というレベルなので、学校の宿題にはあまり頼ることなく、自らが自分の弱点を見極めて主体的に、自主的に「問題解決学習」に取り組むべきだと思う。指導者はティーチャーというよりもコーチの要素が大きくなる。宿題という強制的学習ではなく、自主的で主体的な学習にシフトされるべきかと思う。
第四の「成績上位をキープする段階」になると、勉強は学習というよりも、もはや「訓練」とか「トレーニング」になってくる。「問題集は何回やればいいですか?」とこのレベルの生徒に聞かれると、「ストップウォッチを使って最低5回」とか、「15分を切れるまでやれ」とか、15分を切れたら「30秒短縮して14分30秒にせよ!」となり、やはりトレーニング感が否めない。そしてここでの最大のポイントは自分を律すること、自分の心をコントロールすること、「自律心」や「自制力」の養成に主眼が置かれる。心の安定と、考えて考え抜いていく思考力の養成は、訓練を通して身につけていく。そしてそれをサポートするのがコーチとなる。宿題は一律的なものは不要となり、個々に合わせた独自なものとなる。
家庭学習の習慣化付け→わからないを「わかる」に→わかったら「自力でできる」に→それができるようになったらストレスフリーで「スラスラできるように」→さらに「スラスラ―ッとできるように」という、各段階に合った「適切な宿題」を生徒は望むのである。生徒は宿題なら何でもいいから出してほしいとは決して思ってはいないはずだ。
ここまで3つの立場から宿題とは何か?を考えてきた。宿題はホームワーク(homework)という。家庭学習の方法、手段のひとつであり、そして強制力を有している。
第三者からの強制力で課された宿題が、いつか学習者の内側から自発的に発生した課題へと質的に変化した「宿題」が、「理想の宿題」であろう。
2020年から文部科学省の方針で学校教育が変わる。いつの日か学校の出す宿題がホームワーク(宿題)を指すのではなく、家庭内教育が学校からの宿題に頼らず、各家庭の中で主体的に計画立案されて本当のホームワークとなることを期待したい。そして各家庭で保護者や年長者の、子供や年少者への家庭内教育力レベルが上がれば、学校から出される宿題は不要になるかもしれない。「宿題とは何か」を考えることは、「教育とは何か」を考えることではないだろうか。
(2019.12.29 記)