「高1ショック」と「お寺での修行」

執筆のきっかけ

 初めて海外に行き異文化に触れると「カルチャーショック」とよばれる強烈な衝撃を経験することがあります。中学への入学、高校への入学時にそれとよく似たことがおきることがあります。

 入学直後から違和感を感じて中学に馴染めない「中1ショック」や、学習内容があまりにも難しく、勉強する意義を見失ってしまう「高1ショック」。

 「中1ショック」「高1ショック」という言葉は当時ありませんでしたが、今振り返って見ると、あれはそういうことだったのかもしれないなぁということが私にもありました。

 七転八倒しながらも精一杯がんばって中学、高校、大学を修了し、教職員採用試験を経て公立高校の先生として奉職いたしました。

 自分の経験した「高1ショック」とその直後の「お寺での修行」を授業中に話したとき、多くの生徒が興味関心を持ってくれました。びっくりしました。

 今その真っ只中にいる人、自分に自信が持てなくて漠然とした不安の中で、いったい何をしたらいいのか?うだうだして爆発しそうになっている人に、「自分で自分を変えていく、勇気、覚悟、努力」を大切にしたらいいのではないか?という想いを文章にしてみました。

 

 

「自分を鍛える」高1 お寺での修行 (その1)

 高校1年生の7月から11月末までの半年、お寺で生活させていただき高校に通ったことがある。目的は自己修行。甘さのある自分自身に対して、それを克服し、心身ともにたくましくなって人生の荒波を乗り切りたいと思ったからである。

 

 その頃、学業成績に不満を覚えていた。つっかえていた。人生で初めての悩み事、最大の悩み事になってきつつあった。ストレスが大きくなりかけていた。自分を肯定出来ない。でも否定はしたくない。これ以上の成長は無理なのか?

 居眠りもせず、さぼることもなく、集中して学校の授業を受けている。だけどテストの点数が良くない。勉強の仕方に問題があるのだろうか?それとも自分の頭が悪いのか?

 どちらにせよ高等学校の学習内容はとてつもなく難しい。その難しさを嘆いていた。がしかしそれは誰のせいでもなく自分の未熟さのせいであろうとぼんやり思っていた。そして数か月後のある日、突然、「自分自身の成長のためには修行が必要だ、そうだ、修行すればいいんだ!」と膝をたたいた。それを実行するには、今の生活と生活環境ではダメだと思った。まず親元から距離をおき、精神的に自立するべきだ、どうしよう?どうしようか?うーん、あッそうだ、オ・テ・ラ・だ! 寺だ! 寺! そうだ、寺で修行をさせてもらえばいいんだ、となった。

 土曜日の夕方、部活帰りに、「ここで寝起きをして修行させてください。お願いします。」と誰にも相談せず、アポイントメントも取らず、たったひとりで、あるお寺に直接行き、頭を下げた。

 

 岡崎市にある浄土宗のそのお寺は、全国から僧侶が来ている修行寺だった。10歳上の兄がこの寺で、高3の夏休み期間中、泊まり込んで受験勉強をしていたことが私の頭の片隅に残っていた。このお寺なら許可してくれるのではないか。そして私の両親も私の修行を許してくれるのではないかと思った。

 

 「まぁ、お上がりなさい」とうながされ靴を脱いで和室に通された。住職と副住職は、初めて会う私の話を、とても丁寧に、そして誠実に聞いてくださった。

「いいでしょう、わかりました。あした親と一緒に来なさい。」

 

 その日の夜に親に初めて話しをし、翌日の日曜日に母と一緒にお寺に伺った。朝5時に起床、5時から7時まで本堂にて朝のお勤め(読経)、7時から掃除。7時半から朝食、そして自分で弁当を作り、登校。学校から帰ってきたら帰宅の報告。夜7時に夕食。8時から夜のお勤めが2時間あるのだが、私だけはそれを免除され自室にて勉強。就寝。翌朝5時起床……。ただし土曜日の夜は実家に帰ることを義務付けられた。(土)は実家で夕食、就寝。日曜日は夕食を済まして、夜8時までに寺に戻ること。これらの規律を告げられた。私はもちろん了承した。

 「よーしっ!」と闘志が湧いてきた。

私の修行がいよいよ始まることとなった。

 

(続く)

 

 

「自分を鍛える」高1 お寺での修行 (その2)

「寺の朝は早い。」

本堂のタタミに正座して目を閉じ黙想。時刻は5時。今から2時間の読経が始まる。

 

 私がこの寺にきたのは7月初旬だった。読経の声がかき消されてしまうほどの蝉しぐれだった。住職、副住職、12人の修行僧、そして高1の私。末席に座る。初めての朝のお勤めだった。

 わたされた経典を群読、群唱していく。独特の節回しがあることにすぐ気づいたので何とかまねようと試みる。経典の一字一字を目で追い、聞こえてくる音をおうむ返しする。集中しだすと蝉の声がだんだん遠くなっていった。

 

 気がつくと後ろの方で声がする。振り向くと末席の私から3、4メートルうしろに座っているおよそ10人のおばあさんの一人が、振り向いた私の座っている畳を指さしていた。何だろうと思って座っている畳を見たら、その畳が濡れていた。それは私を中心にして直径80センチほどの円になっていた。「えッ、なに?」「何だろう?」お漏らし?いや、それはない。なに?なに?

 不思議に思っているとそのおばあさんが「あの人、きょう初めて見る人だねぇ。正座が慣れてないからあんなにもたくさん汗かいとるわぁ、本当にすっごい汗だねぇ、びしょびしょだわぁ!」と言ったのが聞こえた。内心ほっとした。お漏らしではなかった。着ているトレパン、トレシャツをよく見ると汗でぐっしょりだった。足のしびれを我慢していてどうやら汗をいっぱいかいたらしい。畳が濡れるほどの汗に私は気づかなかった。

 

 読経の最後の方になると、念仏を唱えながら合掌し、立ったり座ったりが10回ほど続く。座ったら頭を下げて両手を押しいただく。2時間近く正座しているので足がパンパンに腫れ、むくんでいた。足はしびれているのを通り越し、たたいてもつねっても痛くない。腰から下は完全に麻痺している状態だった。だから立ったり座ったり押し頂くその所作ができなかった。朝のお勤めが終わり、後ろを向きおばあさんたちにご挨拶をした。頑張りなさいよというお言葉を頂いた。

 

 修行初日、朝のお勤めが終わった。「これは大変だぞ」、想像していたよりもこれは大変だぞ。軽々しく「修行させてくれ」と言ったことが、どんなに身の程知らずなことなのか!その愚かさをこの朝の2時間で文字通り痛感した。

 

7時になった。掃除の時間が始まった。

(つづく)

 

「自分を鍛える」高1 お寺での修行 (その3)

 2時間の朝のお勤めが終わるとすぐ「清掃」が始まる。後ろにいらしたおばあさんたちも修行僧たちにまじり一緒に約30分間掃除をする。

 

 私は本堂の縁側(濡れ縁)の雑巾がけを命じられた。雑巾をしっかり絞り「トントントン♪」とテンポよく雑巾がけ。小学生の頃、木造校舎の廊下を競争しながらした以来の雑巾がけだった。この久しぶりの雑巾がけは、思ったよりも大変だった。本堂の縁側は見た目より広い。思った以上の面積だったのだ。また汗がふき出してきた。それでいて手にトゲが刺さり、チックとする。注意してやらないとケガをする。

 15分ほどで雑巾がけが終わり、次は庭の掃き掃除。竹ぼうきで落ち葉などを掃いていく。本堂、講堂、鐘つき堂、宿坊、庭。かなり広い。7月は落ち葉が少ないので助かるが、11月下旬以降の落ち葉との闘いが思いやられた。

 この日、庭を掃いていた時に私は「注意」を受けた。初めてでわからないことだらけなので、事あるごとに私は近くにいるお坊さんにそれを聞く。ここに早く適合しようとするあまり、質問しまくっていた。すると年配のお坊さんが私をにらめつけながら「人のやっているのをよく見てやりなさい!私語はダメ!私語を慎むように!」と強い口調でおっしゃった。「あ、ハイ。すみません。」と頭をさげた。質問も私語になっちゃうのかぁと下を向いていた。「清掃」も修行のひとつ、私語は厳禁。なるほどなぁと思った。庭のどこから掃くか?どの方向に掃くか?他の人の行動をちらちら見ながら、黙ってただ黙々と竹ぼうきを動かし続けた。

 

 7時半、清掃がおわり朝食になった。掃除の時間帯に調理当番の修行僧2名が食事を作る。板の間にひとり用の高足のお膳が2列、2メートルほど離れたむかい合わせで並んでいた。私のお膳はそこからさらに下がった下座にぽつんとあった。一汁一菜の精進料理だったが、私は僧侶ではないということで肉や魚の肉食(にくじき)が一品追加されていた。したがって私だけが一汁二菜だった。ありがたいなぁと思う反面、なんとなく申し訳なかった。合掌して頂く。

 「あれぇ~、ん?、う~ん?」

お膳を眺めていた。白米に目が止まった。茶椀に盛られたごはんをよく見ると、白いごはんの中に何かが入っている。炊き込みご飯ではない。チャーハンでもない。白いごはんだ。「何だろう?何がはいっているのかなぁ?」それはごはんに交じって入っている。お米の粒に似ている形だがひとまわり小さくて細かった。色も似ているがお米ほど白くはなかった。

 

「何だろう?」と思いながら食べてみた。タンパク質のような、油のような・・・。お米ではないことは確かだ。でもまずくはなかった。あえてたとえるならば、長野県の特産物の「ハチの子」に近い。それが一膳のごはん茶碗に7つ8つは入っていた。

 

「これはなんだろう?」

 

 不思議に思いながら食べ続けた。慣れてくると何となくおいしくなってきた。おかわりまでした。でもそれがなんなのかは全くわからなかった。食事も修行のひとつ、私語は厳禁なので聞けなかった。

 後日、一人の修行僧と世間話をしていた時に何気なくそのことを聞いてみたら教えてくれた。ついにその正体がわかった!がしかし、知らない方が良かったと思った。知らなければよかった。世の中には、知ることよりも知らないでいることの方が良いということがある。これはまさにそれだった。知って飛び上がった。「うッ!」となって息が止まり、顔から血の気が引くのがわかった。ゾッとした。

(つづく) 

 

「自分を鍛える」高1 お寺での修行 (その4)

 講堂に、16畳の和室をふすまで仕切った8畳間が2つあった。そのひとつが私の部屋である。身ひとつでの居候の高校生にとって、身分不相応な広さであった。そこにあるのは、勉強用の和机とふとんだけである。

 ふすまを隔てた隣は、28才の修行僧の部屋だった。実家がお寺で、長男だからそのお寺をいづれ継がなくてはならないので、大学を卒業後は修行僧として各地の修行寺で修行し、3ヶ月前にこのお寺に来たそうだ。そして来年はいよいよ浄土宗総本山、京都にある知恩院に修行に行くと言っていた。すごいことだなぁと思った。沈着冷静にして柔和な青年でいつもニコニコしていた。それでいて知識も豊富で色んな事を教えてもらった。夜私が学校の勉強している時、東京出身のこの修行僧Kさんはいつも読書をしていた。お寺は椅子の生活ではない。私は本を読んだり勉強する時は、あぐらをかいて和机を使用する。勉強中に疲れを感じるとペンを置き、背伸びしバンザイをしながら後ろに倒れて休憩する。畳の上での大の字だ。すると隣から「高原く~ん、休憩?」と声がかかり「少し話そうか?いいかな?」とふすまが開き、私の部屋でしばしの世間話となる。

 「勉強は大変?」「ここでの生活はどう?」「自分の将来像は?」と話しを起こし、アドバイスしてくださった。「あの~、ずっと聞きたいことがあるんですけど?」「何?聞いて聞いて。」「食事の事なんですけど、白いお米の中に何だか分からないんですけど、なんか入っているんですけど、あれってなんですか?麦ではないし・・・」

 

 「それか~。それのことかぁ~。あの~、知らない方がいいかも・・・。」

 

 私から視線をはずした。畳をずっと見ている。

 

「知りたい?」

 

かなり間があった。私は言った。「できたらでいいんですけど、知りたいなぁと思います。」

 

 「わかった。教えるよ。」

 

「『うじ』って分かる?なんか腐ったものにわく、あの『うじ』、分かる?」「わかります。わかりますけど『うじ』ですか?なんでごはんの中にうじが入るんですか?わくんですか?」「台所にさ、ドラム缶ぐらいの大きさの米びつがあるでしょう?あの中にネズミが入ったらしくて、それに気づかずフタをしめたら中でネズミが死んでうじがわいたらしいんだ。ネズミの死骸が米びつのかなり下の方に潜ってしまっていて、うじが大量発生するまで誰も気づかなかったんだよ。あわててネズミの死骸を除去したものの、うじが除去しきなかったんだよ。かなり取ったんだけどねぇ。」

 

 なんとなくあと味が悪かった。食事に関して好き嫌いなく何でも食べるが、白いご飯の中にまじったあのクリーム色の物体の正体を知ってしまったのは、6日のあやめ、10日の菊、遅かりし由良助、時すでに遅しという感じだった。

 

 「知らなかったほうがよかったかも、ね。でもこれぐらいのことでくじけてはいけないよ。仏の教えでは人生は四苦八苦から始まるとされている、生老病死を四苦という。つまり人間として生まれたということを苦(く)と考えるのだから。」

 

 人生は大変だと思うことにしよう、生まれた以上は。こんなことぐらいではへこたれずに、「なにくそーッ」と思って前進するということを、このお寺での学びの第一歩と心に誓った。(つづく)

 

「自分を鍛える」高1 お寺での修行 (その5)

 お寺での居候生活が1週間続き、初めての週末がやってきた。お寺に住まわせていただきたいという私からの要望に対して、ご住職が示された幾つかの条件の中の一つに「土曜日の夜は実家に泊まる」というのがあった。

 その当時、学校は6日制なので土曜日に高校へ行って授業と部活をこなし、夕方お寺に戻り、身支度を整えてご住職にご挨拶して実家へ帰った。自転車で約30分ぐらいで自宅に到着したが誰もいなかったので、夕食の支度にとりかかった。ひとり、またひとりと家族が帰宅し夕食の時間を迎えた。

 「どう?お寺での生活は?」というのが食事の時の話題になったが、通り一辺のことをこたえておいた。こちらからは細かい話を一切しなかった。だから「うじ」の話もしなかった。食事が終わり、勉強し、風呂に入り、テレビを少し見て寝た。考えてみればテレビを見るのは1週間ぶりだった。

 お寺に戻ったのは日曜日の夜だ。ご住職のお部屋までご挨拶に行く。正座をし両手をついて、「ただいま戻りました。」と申し上げると「実家はいかがでしたか?寺での生活に耐えられず、ひょっとしたらもうここには戻ってこないのでは?と思っていましたよ。」と満面の笑みでおっしゃられた。「とんでもない、まだ始まったばかりで何も習得できておりません。これからですよ、これから!」と申し上げながら、こちらも笑顔で応えた。

 「それでは私からあなたへ宿題を出しておきます。」(宿題?)「あなたへの宿題です。縁あってこの寺へきたわけですから、いい修行にしていってほしいので。」

 

 「あなたは今16歳です。若いです。長い人生、これからです。これからバラ色の人生を、素敵な人生を送ってほしいと思いますが、ただ待っているだけではそれをつかむことはできません。私は終戦時シベリアでソ連軍の捕虜として数年をすごしました。地獄のような日々でしたが、なんとか生きて日本に帰ることができました。捕虜の時に、もし祖国に生きて帰れたら、これがしたい、あれがしたい、と何度も何度も考えていたものですよ。」

 多くの人が亡くなった、シベリアでの捕虜の話は知っていたが、ご住職がそうだったとは知らなかったのでびっくりした。「さてあなたは将来、何がしたいですか?何をしていきたいですか?そうですね、それを100個、考えておいてください。そしてそれらを紙に書いて私に提出してください。」

 

 将来何がしたいか?何だろう?何て書こうかな?

正直かなり困った。今までそんなことを真剣に考えてこなかった。「あなたのお父さんも徴兵されて軍隊に入ったそうですね。お父様も兵隊として戦地で激しい戦闘の中、それを考えたと思いますよ、もし生きて帰国できたなら、あれをしたい、これをしたい、ということを。死と隣り合わせの経験をしたことがある人はみんなそうです。でもあなたは今、死とはかけ離れたとても平和な時代に生きています。」

 

 学校での難しい勉強以上の、さらに難しい勉強だと思った。でもこの宿題、なんとかやってみよう、自分自身と向き合って。昭和51年の7月、16歳の夏だった。

(つづく)

 

「自分を鍛える」高1 お寺での修行 (その6)

 お寺での修行僧は上が80歳、下は小学5年生だった。私と同世代の高校生もいた。

 小5の男子は朝5時の起床に難があり、いつも眠そうな顔で読経していたが、本堂での朝のお勤めに遅刻することは一度もなかった。このことはとてもすごいことだと思い感心した。体は大きくはなかったが精神面がとても強かった。11歳で故郷長野から愛知県の岡崎市にたったひとりで僧侶の修行に来ているのである。親元を離れ異郷の地での生活だ。それも普通の生活ではなく、寺に住み込みでの修行なのだ。私よりも数か月はやくこの寺に入山したので、私は小5の彼を「先輩」と呼んでいた。私の方が入門が遅いのだから当然である。だが入浴に関しては私が一番風呂だった。8時から夜のお勤めが始まるのだが、私だけはそれをせず、その時間から学校の勉強をするように住職から申し渡されており、午後7時半に入浴せよとなっていた。これは修行僧の方々に対して礼を逸するのでは?と辞退したのだが、「入浴せよ!」ときつく言われたので最終的にそれに従った。しかしこのお寺で一番末席の私が一番風呂に入ることへの抵抗感がずっとあった。身分不相応に思えた。が「先輩」に「お風呂の湯加減、どうかなぁ?」と聞かれて、熱いとかぬるいという、いわば温度センサーが私の役目だった。ここのお風呂は今ではほとんど見かけなくなった「五右衛門風呂」で、大きな釜というか「はそり」というか、中に貯めた水を薪(たきぎ)で直接たきつけて沸かす風呂なので、やけどしないように円形のざら板に乗って入浴しなければならなかった。風呂を沸かすのが小5の彼の仕事だった。約15分間の入浴中に格子の外で、湯加減の微調整を彼が毎日していた。彼の修行中の大事な仕事のうちのひとつだ。

 彼は9歳で出家した。小学3年生で出家し、実家のお寺で2年間すごし、小5でこの寺に来た。ここで約2年修行したら一度実家に戻り、その後また別のお寺での修行が続くんだと私に教えてくれた。すごいと思った。これはすごいことだと思った。わずか9歳で自分の将来を決定し、目標を定め、手段を特定し、それを毎日毎日地道にコツコツと積み上げていく。それをすでに2年間も継続している。しかも今は親元を離れて。親の思いや本人の覚悟を考えたとき、その強固な意志に基づく修行という貴い生活は、シンプルでありながらとても力強いものだと思えてきた。

 それに比べると、何て自分は弱い生き方をしているのか?だんだん恥ずかしくなってきて、彼によって用意された風呂に入らせていただくことは、とても畏れ多いことに思えてきた。16歳の私は弱く、11歳の彼は強かった。やはり彼は私の先輩で、尊敬すべき小5の修行僧だった。私の、その足らない覚悟を、彼をしっかりと見て、しっかり学んで、私の足らないところを補っていかなければなぬという思いが、入浴するごとに強くなっていった。

(つづく) 

 

「自分を鍛える」高1 お寺での修行 (その7)

 お寺には小5から80歳までの修行僧がいたが、その中に高校生もいた。この寺は尼寺ではない。したがって女性はいない。女性がいないので、男たちだけで食事や洗濯や掃除や五右衛門風呂の焚き付けなど、家事全般をこなさなければならない。

 

 私も自分の洗濯は自分でやるのだが洗い終わって干している時に、「それは方角が違うなぁ.。縁起悪いなぁ。」と若い僧侶が微笑みながらこちらにやって来た。「あのさぁ、ワイシャツはさぁ、ボタンがあるでしょう?それが前側。前・後ろがあるものは、前が南を向くように干さんとあかんよ!それが何故だか、分かる?」と言いながらハンガーにつるされた私のシャツを干し直してくれた。北向きが南向きになった。「分かる?わかんない?」。こぼれ落ちるぐらいの満面の笑みをたたえて私の目をのぞき込んできた。

 彼は定時制高校に通う1年先輩だった。私が全日制の1年生で彼は同じ高校の定時制の2年生だった。わたしが部活を終えて帰るころに、彼は登校してくる。滋賀県の愛知(えち)郡のお寺の出身で、高校1年から愛知県岡崎市のこのお寺に修行に来た。昼はお寺で修行、夕方から高校に通うのだ。

 

 「漢文でならってない?北向きは敗北を表すって。敗北とは、負けて逃げる、という意味だから。」

 

 あっ、確かに習った、習った。北は、方角の「北」という名詞の他に、「ル」と送り仮名をふると、「北ル」(にげルと読む)(逃げる)という動詞になるって高校で確かに習った!

 

 この「干す時の方角事件」(大袈裟!)がきっかけで私たちは仲良くなり、朝のお勤めのあとの掃除で1回、夕方の学校で1回、就寝前に1回と、1日に計3回は言葉を交わすようになった。その会話は日常の何気ない出来事から将来のことまで何でも話し、打ち解けた雰囲気があった。それはとても楽しく、リラックスできた。学校の定期テストの前に勉強を教え合ったりもした。

 

 私にとって隣室の28才の僧侶は「一番上のお兄さん」だったが、定時制の彼は「ほんの少し上のお兄さん」になっていた。まだ暑い暑い7月だった。この二人の兄の助けもあり、私の修行はその基底部が少しずつ出来上がっていった。一人では形作れなかっただろうなぁと今になってそのありがたみを思う。人は一人きりでは「人」にはなれない。頑張っている人には応援してくれる人がどんどん増えていく。さぼったり怠けたりすればその応援団は去っていく。本気で頑張っていれば応援団から大きなエネルギーがもらえるということを、私は気づき出した。

 

 この応援団を裏切らないように、努力、精進すべきなのだ。真面目にじっくり、地道にコツコツと積み上げていくぞ!という思いが「力強い覚悟」に変化しだしていった。

(つづく)

 

「自分を鍛える」高1 お寺での修行 (その8)

夏休みが近づいてきた。二者懇談で保護者会があり、母が出席した。母はおしゃべり好きだが、私が家を出てお寺で居候をしていることは担任には話さなかった。担任は、男性の英語の先生で、人間的な奥行が物凄くある、重厚で穏やかな先生だった。私は小1から高1までで、このタイプの先生に会ったことがなかった。とても信頼できる先生だったが、母はおしゃべりにもかかわらず、相手が他人の第三者の場合には余計な事は一切話さない主義だったので、保護者会後に担任から私のあれやこれやを質問されることは全くなかった。でも「高原ら~ぁ、お前の目、最近いいなあ。授業中は特にいいなあ。心が充実しとるのかなぁ、背筋がピシッとしとる。いいか、それを継続させて、部活動も勉強も頑張れよ!」と声を掛けてもらった。自分で意識してやっていることではなかったが、精神的に安定してきたのは感じていたので、評価してもらえたのは素直に受け取れたし、うれしかった。

 

 精神的にたくましくなってきたのは、第一にお寺での修行がきっかけになったことが挙げられるが、第二、第三の原因もあった。家庭学習の総量が増えたことによる充実感や学習するモチベーションが高くキープできたことや、読書量も増えた。これは隣室の「上のお兄ちゃん」の影響が大きかった。28才のこの修行僧は読書家で、1日1冊のペースで文庫本を読み、その本を私に回すのだ。この時期に梶井基次郎、夏目漱石、森鴎外、太宰治、芥川龍之介、伊藤整、三島由紀夫など次から次へと読破した。読書の楽しみが無限にどんどん広がって行く。楽しかった。特に寺に寝泊まりして読む、輪廻転生の物語、三島由紀夫の「春の雪」は、「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」と輪廻転生が続き、この『豊饒の海』四部作を読み終えた時は、この作品が持つ不思議な世界観と「つながり」の物語性に、深いため息をしながら何とも言いようのない読後感を初めて経験した。

 

 規則正しい生活を通して心が整ってくると余裕がでてくる。今まで見えなかったものが少しずつ見えるようになってくる。見えてくるとそれを追求したくなる。それを少し追求しだすとそれがまた面白くなってくる。それって自分が今後やっていきたいことなのではないか?はたまた興味関心がただ高まっただけなのか?どちらにせよこれは面白そうだな、やってみたいなぁ!と思えることが少しずつ姿をあらわし出した。

 

 以前住職から私へ出された宿題の「将来やってみたいこと100か条」(このシリーズのブログ、その5を参照)が書けるかもしれない!と思い、急いでノートを広げてメモった。

 

 「考え」いうのは、考えが考えを生み、それが妄想になり、堰を切った洪水のようにどーっと速度を増してみるみる広がって行く。だから忘れないうちにメモる。優先順位を付けずひたすらメモる。箇条書きでどんどんメモっていくと60ぐらいになっってきた。

 

 自分の興味関心や将来的な志向は、紙に書いてみるとよく分かる。これは住職が私を導いてくれる証だと思った。まだ60ぐらいの「100か条」、それ自体は自分の内面からの自発的な欲求だが、これはご住職のお導きそのもので、私の中から殻を上手に破って、そっと引き出してもらえたことがとてもありがたかった。指導者の力はすごいと思った。自分が住職の掌(たなごころ)の上に乗っかっていて、その上に今は居るけど、ここで成長し、いつか分からないがこの寺を出ていく日がいずれやって来る。七転八倒して、もがくだけもがいて脱皮するのだ。たぶんそれが私の、ご住職に対する一番の恩返しになるのだと思った。

 

 「指導者の力」は、人の人生を変える力を持つ。この「指導者の力」は、その言葉の重みを増しながら、強くて正しい「指導者」になりたいなぁと思うようになった。だから「100か条」もすぐに書けそうに思えた。が、それは思えただけだった。10代の、「若気の至り」だった。

(つづく)

 

「自分を鍛える」高1 お寺での修行 (その9)

高校1年の7月から12月まで、お寺に生活拠点を移して私の「修行」が始まった。自ら志願してお寺での住み込み生活をお願いし許可していただいたので、わがままは絶対言えないので、早く慣れて、分からないことはどんどん質問し、自分のすべきことを責任持ってやっていかなくてはならないと心に決めてから約1ヶ月が過ぎた。夏休みに入り、部活と補習があるくらいで学校は忙しくはなかった。

 ある日の朝、ご住職から「高原君、今度ゆっくりお話をしましょう」とお声がかかった。「きょうの午後は空いてますけど・・」と返事したら「それはいい。私も空いてます。2時でどうですか?」「大丈夫です。分かりました。」「では2時に、前にあなたに出した宿題を持って私の部屋に来て下さい。」面談の日時が本日午後2時に決定した。

 私のきょうの予定は午前の部活だけだった。自転車での通学時間は約30分。登校時も下校時も頭の中でご住職との面談のシュミレーションをずっとやった。下校時の道程は短く感じ、あっという間にお寺に着いてしまった。遅い昼食を取るともう約束の時間になった。

 

 「失礼します。高原です。参りました」しばらく間があって「どうぞお入りなさい。」

ご住職の居室は和室だった。勧められた座布団を脇に寄せて畳の上に正座した。

「心がずいぶん落ち着きましたね。慣れるのがとても早かったです。お経を読む声も大きくてハリがある。いっそ仏門に入りませんか?僧侶になりませんか?」と笑顔でおっしゃった。

「いえいえ、とんでもないです。おそれおおいです。」「そうですか?そんなことはありませんよ。まぁ、寺の坊主になる覚悟が出来たら教えてくださいね。ところで私からの宿題は出来ましたか?」「はい、持って参りました。」持参したノートを両手で渡した。

 

 およそ10分間、点検するかのごとく、じっくりと、黙ってノートをめくられた。わたしはご住職の顔をずっと見ていた。せみの声だけが聞こえてきたが私の中で沈黙の時間へと変わっていった。汗が急にふきだしてきた。丸裸にされるように感じた。ご住職はノートの中を全てお読みになられた。

 

「いいと思います。だいたいできてます。いいです。」

 

びっくりした。合格したのか?はたまた不合格なのか?

 

「第1段階は合格ですね。」(合格だ、うれしい!でも・・・?) 

(だ、だいいち、第1段階!?)

 

「高原君、次の宿題を出しますね。このノートの中の「将来やりたい事100か条」に優先順位をつけてみてください。一番やりたい事から順に1、2、3と、数字を打ってみてください。それが宿題です。」

 

 書き出すだけでも頭の中から絞り出すような作業だと思ったが、さらにこの箇条書きの一つ一つにやりたい順に数字を打つのは大変だ。難しいことだ。大学に行きたいとか、学校の先生になりたいとか、海外旅行にいきたいとか、はたまたオートバイに乗りたいとか、頭に浮かぶことを、死ぬまでにこれだけは是非やりたいという事は書き出した。それに序列というか順番を付ける作業は、何を基準に決めればいいのか?

 

「高原くん、お盆休みまでにノートの中に優先順位をつけて私にみせてください。お願いですよ。約束ですよ。」とご住職から第2段階の宿題をいただいた。

 

物事を決定するためには情報が必要だ。その情報に基づいて、知識、理解、予算、価値など総体としてとらえ、最終的に自らが決定しなければならない。何を優先させるか?優先させるべきか?プライオリティ(priority)の決定は本人の人生観によって決まる。

 

「決めれますか?お盆までにですよ!」

 

ご住職の問いかけに返事が出来なかった。

(つづく)

 

 

「自分を鍛える」高1 お寺での修行 (その10)

 高校1年生の昭和51年7月下旬、お寺のご住職との面談で宿題の宿題が追加された。最初の宿題で自分の人生で将来やりたい事、やってみたい事を100個書き上げたのだが、今度の宿題は、それらに優先順位を付け、優先順位の高い順に書き直せというものであった。優先順位を付けるには「基準」が必要となる。その「基準」はどうするのか?どのように決めたらいいのか?

 家庭の環境や地域、コミュニティの中で自分に合った「しっくりくるもの」というのが徐々に形成される。耕された畑に種がまかれ、発芽する。芽はどんどん生長し、花が咲き実となる。その過程を通して自分に「しっくりくるもの」を感じ取る。たとえば料理を作ることが好きだとか、本を読むことが好きだ、またはスポーツはやるより見る方が好きだとか。対人関係なら、多くの人と会ってお話をするのが好きとか、いや一人でおとなしくじっとしている方がいいとか。

 過去の経験を通して自分の物差しである「基準」が出来上がっていくのであろう。それを社会の常識に照らし合わせたり、先輩諸氏のアドバイスを取り入れて修正し、その「基準」は使えるもの、頼れるもの、守るものになると思われる。

 そもそも10代半ばの私にも「しっくりくるもの」はあるのだが、その正体は見えない。まだその「基準」があいまいで未完成なのだ。だから優先順位が決められない。基準があいまいなのは、物事の見方が未完成だからだ。まだ人間としての体幹が圧倒的に弱い。

 

 今回出された宿題は、その体幹をきたえ、己の基準を作り、人生の優先順位を明らかにすることなのだ。つまり「考えなさい。自分の頭で考えなさい。まだ考えることが不足していますよ。」という、ご住職からの教えと感じた。お盆まで約3週間ある。この3週間は徹底的に考えてみよう、自問自答してみよう。腰を据えてじっくり考えて考えて考え抜いて、優先順位を決めたい、そのためにも「その基準」を決め切りたいと強く思った。自分で自分を内省することだけを、多くの時間と労力を注ぐのは生まれて初めてのことだった。そしてそれはあたかも禅問答のように、問いかけ、思考、返答を繰り返す毎日だった。だが不思議なことに、それは苦しいけど1週間もすると楽しくなってきて、妄想に近いのだが、脳が暴走して思考が激走しだした。とめられない、とまらない。生まれて初めての経験だ。

 たのしくてたのしくて脳が遊びだした感じがした。どんどんアイデアが湧いてくる。すごく楽しい。涸れない泉のような状態だ。自分でもびっくりした。でもはたして優先順位は、つけられるのだろうか?まとまるのか?考えだすととまらないため、寝るために横になっても脳が遊びだし、眠れなかった。夏の暑さも手伝ってかなり睡眠不足になってきた。でも次から次へと頭に浮かぶ新たな考えにかなり興奮気味となり、ハイになった脳はとても熱くクールダウンは不可能だった。もう7月が終わる、大丈夫だろうか?はたしてお盆までに「宿題」は間に合うのだろうか、

 (続く)

 

 

「自分を鍛える」高1 お寺での修行 (その11)

 昭和51年の7月末、自分の将来について、やりたい事、やれたらいいなぁということを優先順位を付けて、全部で百個書き上げよというご住職からの宿題は、残念ながら未完成のままだった。が、その優先順位を付けるという過程で、様々な考えがドンドン浮かんできた。それを忘れないようにメモる。メモがどんどんたまってくる。メモがメモを生むかのようにあっという間に膨らんでいく。これは面白いなぁと思った。

 

 でもそれが逆に困ったこととなる。これらのアイデア、これらのメモをひとつの体系として整理していこうとすると、一体全体どこから手をつけていいものか、ただの一歩も進まない。これをある程度まとめれば、自分の考えている「理想とする自分の将来像」がかなり見えてくるはずだ。でも悲しいかなまとまらない。まとめられない。

 

 数日後、私は隣室の28才の修行僧にそれを相談した。「なるほど、いいことだよ。自分の頭で考えるということ、それは『模索すること』だ。大切なことだよね。生きていく、生き延びていく、自分の人生を全うしようと努力することだから。」とほめてくれた。そして1冊の本を貸してくれた。「知的生産の技術」という本だった。「梅棹忠夫という京都大学の先生が書いた本で、文化人類学の先駆者です。僕はこの本を読んでから梅棹先生の大ファンになり、京大の講義を『もぐり』で聴講したんだよ。いつもドキドキ、ワクワクした。講義内容はいつも面白かった。」同志社大学の学生だった頃の彼の武勇伝の一つである。

 

 1969年刊行の岩波新書だった。大ベストセラーになったと聞く。模索の体験を通して、創造的な知的生産のための技術がたくさん紹介されていた。例えば「B6版カード」の活用方法や、浮かんだアイデアの発酵のさせ方やそれを最終的に1本の論文へとまとめていく方法など、「へぇ、なるほど!」と感心することばかりだった。目から鱗が落ちるというのはこのことだと思った。B6版カードは「京大(式)カード」という商品名で現在販売されている。

 

 この「知的生産技術」を体験、体得したいので、早速書店に直行し、B6のカードを大量に買った。すぐ寺に戻り、たくさんのメモをカードにていねいに書き写していった。カード1枚にアイデア1つ。見出しもつけた。50音順に並べて保管し「発酵」を開始させた。

(続く)

 

「自分を鍛える」高1 お寺での修行 (その12)

 いつも通りの暑い7月だ。お寺の雑木林から蝉のにぎやかな鳴き声が、オーケストラのシンフォニーのごとく層をなして上から降ってくる。7月中旬からはじまったカナダのモントリオールオリンピックで日本選手団は大活躍し、日本国内はオリンピックで連日盛り上がっていた。

 ご住職からの宿題の期限は、2週間後の8月15日。私はB6版のカードを駆使し、そのアイデアの発酵を待ちながら、「将来、自分がやりたい事100ヶ条」を完成させようとしていた。昭和51年7月下旬だった。

 16才の高校1年生の男子。将来やりたい事は山ほどある。いつかオートバイに乗りたいとか、車を運転したいとか、空を飛びたい、飛行機を操縦したいとか、海外旅行に行きたいとか、苦手な器械体操をうまくできるようにしたいとか、学校の勉強がストレスなくスラスラできるようになりたいとか、英語をペラペラにしたいとか。

 いつの日か自分の仕事をしっかりやって、社会の中でとても小さいけど耐久性バツグンの歯車の一つになりたいとか、休日の余暇や趣味を充実させたいとか・・・。

 隣室の28才の修行僧に私のノートを見てもらったら、「やりたい事がたくさんあるんだね~ぇ。いいなあ、若いなぁ」と私を半ば揶揄しながら、ある人物の話を始めた。

 

 「海外への渡航が禁止されている江戸時代末期の日本で港が2つ開港されたよね、箱館港(函館)と下田港。開港はされたけど日本人が海外に行くことは当時禁止されていた。でも箱館港から外国船に乗って密出航しアメリカへ渡った新島襄という人、知ってますか?彼はアメリカに上陸した。そして大学を卒業した。帰国後は京都に今の同志社大学を設立した。」高校での日本史で明治時代初期の教育史に、1872年の学制、福沢諭吉の慶応大学、新島襄の同志社英学校(同志社大学)が出てくる。その新島襄だ。「彼はどうしてもアメリカに行きたかった。行こうと思った。なぜかと言うと1776年のアメリカ建国や、国としての制度や、キリストの福音(ふくいん)が自由に語られ教えられていることなどを知り、強い憧れを抱くようになったからだ。だからアメリカに行きたくて行きたくて、そしてついにアメリカに行った。そして学んだ。」

 

 「志というのは強い思いから発するもののことです。強固な志は、自らの未来を、将来を力強く切り拓くのです。」

 

 新島襄の話を聞き、私の志はどこにあるのか?どこを目指すのか?私はまだまだひよっこで、曖昧模糊な設計図しか持っていなかった。強固な志からはあまりにも遠かった。箱館でロシア人司祭からの勧誘を受けたにもかかわらずそれを丁重に断り、「アメリカ行き」にこだわって海を渡った新島襄の熱い心を知れば知るほど、私の心の温度は低く、全くもって貧困極まりなかった。

(つづく)

 

「自分を鍛える」高1 お寺での修行 (その13)

 隣室の修行僧のアドバイスは、学校で授業を受ける以上に勉強になった。そもそも学ぶ、習うという行為は、目的に向かって努力することだ。でもただやみくもに努力すればいいというものではないと思う。学び方は主に3つあると思われる。

 まず、学習者の主体的な勉強の仕方だ。これは学習の基本姿勢であろう。2つ目は、先生との対話的な学習だと思う。主体的な学習を継続できている生徒を「対話」という方法でさらに上の段階に押し上げる学習のことだ。そして3つ目は、学習者の深い学習、限りなく研究に近い学習だ。

 このお寺に来る前は、主体的な学習方法をとことん進めて努力さえすれば何とかなるだろうと考えていた。でもそれだけではダメだということもこの数か月で気づいた。気づけたのは指導者からの「対話」であった。主体的な勉強は確かに大事だ。でも井の中の蛙、大海を知らず。このお寺に来てからは、隣室の修行僧が指南役として「対話」で気づかせてくれた。ありがたかった。

 

 お盆まであと2週間、自分の将来を切り開く強い志を掲げて、自分のこれからやりたい事、したい事を紙面にまとめ上げていくぞ!と心に誓った。

 

 何を目指すのか、何に挑戦するのか?

チャレンジャーであるという気概を忘れずに緊張感のある2週間を過ごした。

(つづく)

 

「自分を鍛える」高1 お寺での修行 (その14)

「苦労は買ってでもしろ」 昭和51年の8月になった。もうすぐお盆だ。お盆の頃、お寺はものすごく忙しい。盂蘭盆会(うらぼんえ)のためにまず忙しい。そして次にお施餓鬼(おせがき)で忙しい。施餓鬼は一年のうちのいつでも良いのだが、檀家の方々はお盆のころにまとめてすることが多く、お寺は猛烈に忙しくなる。

 8月13日からお盆は始まる。ご先祖さまの魂が13日の夜、各家庭に戻ってこられ、3泊4日し16日の夜、彼岸へ帰っていかれる。13日の夜に「迎え火」(門火)を焚き、16日の夜に「送り火」を焚いてお見送りをする。京都の大文字焼きの送り火が有名だ。

 

 「ことしのお盆の法会(ほうえ)は準備から例年以上に忙しくなりそうなので、高原君も手伝ってください。住職があなたとゆっくり面談している時間がたぶん取れないと思うけど、以前あなたに出された『宿題』は8月15日までに私の方に出してください」と副住職がおっしゃられた。

 副住職に返事をしながら頭の中ではご住職のことを考えていた。最近のご住職は、かなり疲れがたまっているようにお見受けする。夏の暑さや忙しさで疲れ、そして回復するどころか、どんどんたまっているように私には見えた。

 さかのぼること約30年前、「シベリア抑留」という、酷寒の地での劣悪な生活環境と過酷な労働で膝や腰を痛められたご住職だ。冬になるとその古傷が今でもかなり痛むらしい。

 そもそもお寺の僧侶は、職業柄、膝を痛める可能性が高い。朝2時間、夜2時間、1日に最低でも4時間は正座をしなければならない。さらにお勤めの読経の最後の最後には、「南無阿弥陀仏」と唱えながら正座→座礼→起立→立礼→着座を10回繰り返すのが浄土宗の所作なので、膝や腰を痛めている僧侶にとっては大変だ。かなりの痛みに耐えなければならない。ご住職が膝の痛みをおして法要をお勤めになられていることは、末席の私にもひしひしと伝わってきていた。

 

 「ところで高原君、少し話の出来る時間がありますか?」

副住職からの声かけに「はい、大丈夫です。たくさんありまーす」と返事をしたら、「少しでいいよ、残念ながらこちらにたくさんの時間がないよ。」と笑われた。「ひとつ聞きたい事があるんだけど。」ハイ、「よーく辛抱してこのお寺についてきていると思いますが、なんでそこまで高原君が我慢強いのかと住職が感心しているし、わたしもそう思ってます。なんでかな?その理由?」

 えっ、何とおこたえすべきか困ったがそのようにおっしゃってくださるのは光栄だ。「あのぉー、何と言っていいか分からないですけど、自分からこのお寺で修行させて下さいと無理なお願いをした以上、与えられた責務を果たしたいし、自分の責任は自分で取りたいですし、言い出した以上は尻尾を丸めて逃げ出すこともできないですし、だから一生懸命に頑張ろうという気持ちだけでやってます。」と申し上げたら、「うん、それはわかってます。それではなくて、それだけではなくて、何か別のもの、何か忍耐強いものを感じます。おそらく小さいときにその忍耐力が養われた何かがあると思うのだけど、その何かを知りたいと思ったので・・・」

 

 幼少期の頃のことをあれこれ考えてみた。「苦労は買ってでもしなさい」

 

 親から毎日のように言われた言葉だ。大正13年生まれの父は20才で徴兵され戦場に行った。昭和2年生まれの母は、兄ふたりが戦死している。戦争で青春時代を奪われた父と母との間の次男として私は生まれた。父は公務員、母は看護婦(看護士)だったので、2歳から浄土真宗系の保育園に行った。行くのが嫌になったことは一度もなく、本当に楽しかった。お迎えが誰よりも遅かったのでほかの園児が帰った後は保育園の運動場で辺りが暗くなるまでひとり遊びをずっとしていた。ひとりで練習して自転車にも乗れるようになっていた。鐘つき堂の横の大きなイチョウの木に登って足で枝をゆすって銀杏を落とすのが面白かった。保育園には5年間通った。小学校1年生の時、近所の小6のお兄ちゃんが夕刊を配達していた。自転車で毎日ついて行った。配達の順序は自然に覚えた。そのお兄ちゃんが中学校に入学すると部活で夕刊の配達できないということで、私に白羽の矢が立った。迷わず分かったと返事したが、新聞店の店長が家に来て親と話した。承諾するかどうかについて親はかなり悩んだと後になって聞いた。その新聞配達は結果的には小2になったばかりの私の仕事になった。生まれて初めてのアルバイトで、日曜日以外の週6で配達した。部数は約80部、80軒。自転車に乗り約1時間半かかった。小2から小5の終わりまで、雨や台風や雪にもめげず4年間休みなく続けた。新聞配達を終えて新聞店に戻ると翌日の朝刊に入れるチラシの折り込みを30分ぐらいやった。チラシの折り込みをやると新聞店の店長がお駄賃をくれるので、帰りがけにアイスクリームを買ったり、寒い時期は肉まんを買って食べるのが楽しみだった。

 うちは両親が共働きなので、家に一番先に帰った者が家族4人分の夕食を作るというのが我が家のルールだった。小1から適用されるので小学校の入学式の前日、「あしたからお料理の練習をしてもらう、10才上のお兄ちゃんが料理の先生だ。」という説明が両親からあった。まずは生きるための食べれるものを作る、けがをすることなく安全に作る、火事を起こさぬよう、火に気を付けて作ることが目標だった。兄がまずやって見せ、少しずつ覚えた。兄の教え方もうまかった。少ししてから料理の審査会、品評会を年に数回おこなうようになった。その課題が学年が上がるにつれて難易度も高くなった。小1はご飯を炊いて野菜いためとみそ汁など、一汁一菜に海のものと山(陸)のものを必ず入れることを基本とし、たまご料理、焼き飯、ラーメン、うどん、そばなどだった。小2はシチュウー、カレーライスなどの煮込み料理。小3はコロッケ、メンチカツ、とんかつなどの揚げ物と焼き物。小4は肉じゃがなどの煮物や冷菜、小5はオムライスなど彩りや見場のいい料理や天ぷらや揚げドーナツや寒天やゼリーなどデザートやお菓子、小6は茶碗蒸しなどの蒸し料理が課題となった。大量の油を使う料理法は家族がいる時のみ許可された。小1だった昭和42年、我が家には電気炊飯器はあったが保温機能が付いた電子ジャーはなかった。その当時、世の中に保温付き電子炊飯ジャーもなかっし、電子レンジもなかった。それが普通だった時代だ。「これ、チンして食べてね」という日本語は昭和48年以降に出来た日本語だと思う。だから炊きたて以外のご飯は常に冷や飯だった。それを調理して焼き飯にすることはとても大事なことだった。ちなみに電子レンジが我が家に来たのは小6の時で、調理方法に劇的な変化や改革をもたらした。どちらにせよ「料理をすること」は勉強と同様で、自立の第一歩だと思った。

 小5、小6は児童会の副会長や児童会長をやった。中学に入ると部活の朝練が6時半から8時まで毎日あった。部活がなかったのは1年間で7日間だけで、いわゆる「盆、暮れ、正月」、8月15日と12月29日~1月3日だけだった。学校や部活を休むということは言語道断、遅刻することも「犯罪」だと我々は教えらた。今では考えられないが当時としてはそれが普通だった。

 

 「そうかぁ、なるほどねぇ。保育園と新聞配達、そして台所仕事に部活だね、たぶん。」

 

 副住職には合点がいったようで、「小さいときからかなりきたえられたわけだ。それが当たり前だと教えられて育ってきたんだ。小さいときからの下地がその我慢強さの基礎にあるわけだね。最近はお寺の坊主として若者が10人入門すると厳しさに耐えられず4人ぐらいはすぐやめていなくなっちゃうからねぇ。ありがとう、よくわかったよ。」

 

 副住職と二人きりでお話したのは後にも先にもこの時だけだった。副住職があまりにも忙しかったからである。あれから40年以上たつが、あの時、逆に私から副住職にお寺のことや仏教のことや人生の処世訓や修行そのものについて、いろいろお伺いしたかったなあと強くおもうことがある。朝のお勤めで拝見するその後ろ姿は強く、尊敬の念を抱かせた。凛とした雰囲気が住職や副住職には備わっていた。すごいと思った。もし自分が僧侶を目指し仏門修行をしたならばそこまでいけるのか?どのくらい頑張らないといけないのか?我慢強いと評価されたとしてもこの私が果たしてこの厳しい修行を我慢できるだろうか?

 

 「分かったよ、高原君のこと。住職がおっしゃられた通りだ。」と笑顔でおっしゃった。

 

「『苦労は買ってでもしろ』というのは正しいと思います。」

 

私は副住職の目を見ながら申し上げた。

(つづく) 

 

 

「自分を鍛える」高1 お寺での修行 (その15)

「親の覚悟」 副住職との話しの途中に次のような合いの手が何度も入った。「親がそれをよく許したねぇ」。この言葉に凝縮された「親の葛藤や覚悟」を当時の私は全く気付いていなかった。

 

 5年間の保育園通いや小1からの家庭内料理や中学校での部活はともかく、「小学2年生からの新聞配達」を親が許したことを指して言っているのだ。小2、小3、小4と計3年間続いた夕刊の配達。交通事故のリスクがあまりにも大きい。危ない。徒歩での配達ではなく自転車での配達だからさらにリスクは大きい。親が諸条件を全部洗い出し、メリットとデメリットを明らかにし、検討し、夫婦での議論を経ての最終判断はかなりの「覚悟」を伴ったはずである。でも高校1年生の私はそのことに全く気付いてすらいなかった。親の心子知らず。

 

 家が貧しいから新聞配達を子供にさせたわけではなかった。子供の自立性、規律性、責任感、そして「忍耐力の養成」が主目的だった。我慢のできる子にしたいという親の考えである。実際私が小学校入学当時の我が家の経済状況は「中の中」で、裕福ではなかったが特に貧しかったとは言えない。普通だと思われる。

 ところが10才上の兄の小学校入学当時はかなり貧しかったのではないかと思う。それは昭和32年頃で戦後約10年が過ぎた頃である。当時は日本中のすべての世帯が貧しかったのではないか。その当時写真館を経営していた親戚がいたせいか、当時の生活がわかるスナップ写真が我が家にはたくさんあり、それらの写真からその様子が分かる。カギ裂きになった学生服は丁寧につくろわれ、穴のあいた靴下は強度を落とさないように修繕され、そしてまた穴があいても何度も何度もつくろい直すのが普通だったことが、どの写真からも見てとれる。衣食住における「使い捨て」の風潮はその頃は皆無であった。貧しさや質素な生活の中で「もったいない」という感覚や「ものを大切に使う」という日本の美徳が生活に満ち満ちていた。壊れたら補修して使うのはあたりまえであった。

「戦後の日本の、経済的な貧しさ」が昭和30年代には確かにあったのであろう。戦争後の10年間は生きることに精一杯で明日をもしれぬ、ぎりぎりの生活だったに違いない。「下を見て生活し、上を見て働く。」それが「すこしでも豊かになりたい」というエネルギー源となって高度経済成長へと繋がり、1968年(昭和43年)にはアメリカに次ぐGNP世界第二位の国として経済発展をとげた。私は小学校の2年生だった。

 

 平成10年4月、私の長女の小学校入学の祝い膳の時だった。私ども夫婦、娘二人、義理の母、そして私の父と母の計7名での長女の成長の節目の食事会が開けた。祝い事があるということはありがたく、幸せなことだ。この時私は、自分の小2の時の新聞配達を親として許可するかしないかの判断した時のことを知りたくて、父と母に質問した。

 すると父が「小2の子供の新聞配達」に関して、親としての葛藤と覚悟について次のように語り出した。「大正生まれの我々の世代は、戦争に行かされた。戦闘機の機銃掃射を受けたり、空爆された街が炎上するのを見てきた。戦争を通して『生きるということ』をもの凄く考えさせられた。

 生きるというのは、衣食住だけではダメだ。それに加えて教育と訓練がいる。我が家の子供の教育メニューに、新聞配達をさせるという選択肢はなかったので、新聞店の店長が我が家を訪問したいという申し出を『これはいい機会かもしれない。チャンスだ。』と考えた。お父さんとお母さんは『我が家の子育ての方針』についてかなり話し合った」と聞かされた。初めて聞く話だった。私自身が小学校に入学してから30年が過ぎていた。

 

 私は小学校の低学年の自分の長女を見ながら「この幼子に新聞を配達させること、新聞を配達するのを許可すること」を親として決断できるか?という自問自答を何度も何度もした。親だからこそイエスと言えるのか?それとも親としてはまだ未熟だからイエスと言えないのか?

 

 私が「親に成りきれてないのかなぁ?」と質問すると「親になるというのは三段階ある。」と父が言った。

 「女は子供を産めば親になる。男は子供に名前を付けることで親になる、というのが第一段階。」「次は食べさせていくことで親になる。親はそのためには当然働かねばならない。」「最後は、子供の自立を目的とした訓練やしつけをすること。これが第三段階。これが実に難しい。大変なんだ。本当に難しい。」

「親は子供より早く死ぬわけだから遅かれ早かれ居なくなる。だからいつ親が居なくなってもやっていけるようにするのが親の努め。子供を自立させるためには、親が子供のために家でしていたことをすこしずつ子供にやらせてみること。時には失敗させてみること。そこから学ばせること。失敗してもいいから挑戦させること。そうすれば強い子になってくる。打たれ強い子になってくる。親も強くないといけない。親が強くならないと、子供は甘えてばかりいるダメな人間になってしまう。第一段階と第二段階はともかく第三段階は親側の覚悟がかなり要る。難しい作業だ。」

 

 昔から「獅子の子落とし」や「可愛い子には旅をさせよ」などの故事成語やことわざは、子供の成長段階を見極め、その成長が一定の段階を超えた時、「親としての覚悟」が必須となり、親が子の真の成長を願えば願うほど「厳しい親」となって子供の「本当の成長」を促せるということを言っているんだなぁということを、この時に初めて理解した。

 

 この日を境に、「やっぱり俺にはできないなぁ、小2の、自転車での夕刊配達。許可できないなぁ、苦しいなぁ、俺は親としては「ひよっこ」だなぁ、まだまだだなぁ、、」と反省の日々が続いた。

悲しかった。

(つづく)

 

進学予備校(小2~高3)

特進サクセス高木校です

0566-77-0039

 

コロナに 負けるな! 

手洗い、マスクの着用を!

詳細は「感染症の対応」をご覧ください。

 

2020年

8月

11日

外山滋比古先生が逝かれました(追悼)2020年8月11日

 

 

 東京都文京区小石川のご自宅から勤務校のお茶の水女子大学まで徒歩で行かれる。所要時間は約7分。春日通りの横断歩道で信号待ちに引っかかれば、私のチャンスは約1分増える。

 

 秋に行われる寮祭の主催学年である私は、寮のOBである外山先生にカンパをお願いしようと考えていた。1985年(S60年)の秋、今から約35年前のことである。

 

 我々の学生寮は、愛知県の三河地方出身者が入寮する「三河郷友会」という学生寮である。出身地が同郷のため、全員がネイティブの三河弁だ。その三河寮の2階の洗面所の窓から眼下に目をこらし作戦を練った。

 

 平日の朝は、同じ時間、同じ道でお茶の水女子大学に歩いて行かれる。その歩くスピードはびっくりするほど速い。歩くというより小走りに近い。ほんのわずかな時間で私の視界から消えてしまうのだ。この建物の二階の窓から、何度も何度もそのお姿を拝見した。

 

 私は外山先生を「小さな巨人」と呼んでいた。身長が低かったことからそう名付けた。今思えば大変失礼な話だ。小さな巨人は、背広姿に大きな黒いカバン。そしてインパクト満点の黒ブチの眼鏡。「知の巨人」は小柄だった。

 

「外山先生、おはようございます。お急ぎのところ、すみません。ちょっとよろしいでしょうか?」歩行者用信号が緑の点滅から赤になった。

 

 「三河郷友会学生寮の寮生の高原と申します。おはようございます。実はもうすぐ寮祭ですのでOBの方々にカンパしていただけたらと思い、礼を逸してることはじゅうじゅう承知しておりますが、意を決してお願いにあがりましたぁ。」

 

 勢いが肝心だと思い、淀むことなく、大きな声で、先生の目を見ながら力を入れて申し上げた。 

 

 1983年に刊行された「思考の整理学」は、その年の大ベストセラーだった。大学生協で平積みされた単行本は、口コミも手伝って月が変わるごとにその販売面積を増やしていった。

 

 『学校教育はグライダー人間を作りすぎ。自分のエンジンを搭載し自分自身で飛べる飛行機人間を育成すべきだ、その目的に対して最も大切なことは思考力というエンジンだ。そのエンジンを持たなくてはならぬ。そのためには考えるということを大事にしたい。考えて思いついたアイデアはカードに書こう。そして発酵するまで待つべし。

 

 起床後からお昼までの午前の脳の活動は思考活動にはもってこいだ。無我夢中、散歩中、入浴中の三中は思考には最適。etc・・・』

 

 数年後には文庫本となった。いつしか大学生の必読書のランキング上位となった。甲子園で活躍した根尾選手が2019年の秋、中日ドラゴンズにドラフト1位で入団契約した際、愛読書を問われ、外山先生の「思考の整理学」と答えたことで大きな話題となり、彼はは大いに株を上げた。

 

 「三河寮ですかぁ。はい、わかりました。今お時間、ありますか?」

 

「もしあるんだったら、このまま私の研究室まで一緒においでん。来れる?急いどるもんで、時間がないんだわぁ・・・」

 

 「えっ!!研究室??」

 

 お断りする理由などあろうはずがない。コテコテの三河弁の先生のあとをノコノコとついて行った。

 

 お茶の水女子大学の先生の研究室に、恐る恐る足を踏み入れたあの緊張感と幸福感。「ハイっ」と渡された寮祭へのカンパ。両手で押し頂きながら拝受した。

 

 もちろん先生のご自宅の住所、所在は知っている。わが学生寮のご近所。しかしご自宅にお伺いすることは絶対にしてはいけないと思っていた。執筆などのお仕事の邪魔をしてはいけない、筆を折るような野蛮な訪問は決してできない。先生の書斎から綿々と生み出される研究成果を阻害するようなことは絶対にできない、許されない。思案の末、「徒歩での通勤途中」にお声をかけさせていただくことを決定した経緯などについて申し上げた。勢い余って「思考の整理学」と「省略の文学」の、自分なりの書評をも生意気にもお伝えしてしまった。蛇足だった。でも先生は黙ってうなづいておられた。笑顔だった。目がやさしかった。

 

 私はとてもハッピーだった。カンパをいただけたからうれしいのではない。カンパを頂くというミッションを完遂した上に、尊敬すべき偉大な人物の許しを経て、大学のご自身の研究室である「聖域に入ること」ができたことが、恐れ多くもうれしかったのだ。強烈なカタルシス(魂の浄化)があった。

 

 先生はいつも微笑んでおられた。愛知県の西尾で生まれ、大学生として上京されてからはずっと文京区小石川で生活された。そうして年月が過ぎ、300をこえる著書が刊行された。そのどれもが輝きを失わずに、新鮮で鮮烈な閃光を放っている。どれを読んでも面白い。借り物ではなくオリジナル、古くなく新鮮。本物だからであろう。

 

 近著では「三河の風」(2015年展望社)は特に素晴らしい。明治維新後、愛知県三河地方は明治政府から冷遇された。徳川家の発祥の地だからだ。地元民は政府に頼ることなく、自力で、自分たちだけでやっていこうという独立独歩の気風、風土が醸造されていった。その中で自分らしく、かたくなに生きていくことを学んだ。その生き方は、あたかも蚕(かいこ)に似ている。三河地方は養蚕が盛んな土地で、農家は屋根裏で蚕を大事に育てた。蚕に「お」をつけて「お蚕さん」と呼んで大事にした。蚕は桑の葉を食べて白い糸を吐き、繭(まゆ)を作る。色のついたものは色あせるが、白い繭は色あせることなく純白の糸となる。だから「蚕のように私は生きていきたい」という、「三河人」外山先生の強い信念に、共感を覚えずにはいられなかった。

 

 また健康維持のため、皇居一周約5キロを、ご高齢にもかかわらず毎日散歩される外山先生のテレビ番組を数年前に見た。たぶん「三中」の散歩に違いないと思ってそのお姿をテレビの画面越しに拝見した。その先生が2020年7月30日、胆管ガンで亡くなられた。享年96

 

 今週はお盆がくる。先生にとっては新盆だ。わたしは自分の塾で夏期講習の授業をする。中学生の夏期講習用の国語のテキストの問題文は、長田 弘(おさだ ひろし)、小此木 啓吾(おこのぎ けいご)、串田 孫一(くしだ まごいち)など、そうそうたる方々の文章だが、この30年間、学習用のテキストや大学入試の現代国語の問題文への登場機会ダントツのトップは言うまでもなく、外山先生だった。そしてこの先の30年間もたぶんそうあり続けるであろう。知の巨人は死なず、永遠なり。

 

先生、お世話になりました。

先生、本当にありがとうございました。

先生、同郷人として誇りに思っておりました。

先生、これからも今まで以上に先生の文章を精読していきたいと思います。

 

ありがとうございました。

( 合 掌 )

 

2020年8月11日 記