迎賓館 赤坂離宮でのアフタヌーンティー

 

  令和になって初の国賓としてアメリカのトランプ大統領が昨夜来日した。首脳会談や記者会見が行なわれる東京の赤坂にある迎賓館は、日本を代表する西洋宮殿建築で、現在は国宝に指定されている。明治以降の建造物で国宝に指定されているのはこの迎賓館のみである。

 東京での学生時代を送った1980年代、暗闇の中に浮かび上がるライトアップされた迎賓館の荘厳さに、私は圧倒された。まるでヨーロッパにいるみたいだった。

 それもそのはず、建設当初は皇太子の御所とし明治42に完成した西洋宮殿なのだ。赤坂離宮と呼ばれるのはそのためである。しかし戦時中空襲の被害にあった。焼夷弾の直撃を受けた天井は、雨漏りがひどく天井画や内部の美術品も荒れ果てた状態だったそうだが、戦後復興とともに海外からの賓客の増加により、国の迎賓館を設ける必要からこの赤坂離宮を迎賓館にすることになり改修され、1974年(S49年)に晴れて「迎賓館」として開館した。そして2009年(H21年)には国宝に指定された。2016年(H28年)から広く一般に公開されるようになり、国賓を迎える現役の迎賓館を望めば見学できるようになった。一度は行ってみたいと思っていたのだが、本年(2019年)4月、念願がついに叶った。

 初めて足を踏み入れた迎賓館は驚きの連続で、その豪華さに完璧に打ちのめされた。

北を正面にして鳥が羽をひろげた姿のシンメトリの西洋宮殿で、地下1階・地上2階の鉄骨レンガ造り、外壁は花崗岩、屋根は緑青で葺かれたネオ・バロック様式の外観である。建物内部の各部屋は、部屋ごとに室内装飾様式を変えている。

 正面玄関と大ホールは、深紅の絨毯が導く壮麗な空間だ。アンリ2世様式の「花鳥の間」、ルイ16世様式の「羽衣の間」、アンピール様式の「彩鸞(さいらん)の間」と大きな部屋が3つある。各部屋は細部までこだわったすばらしい意匠が施されている。重さが1トン以上もあるフランス製のシャンデリヤが何基もあり、天井画、美術工芸品も一見の価値がある。

 明日の日米首脳の記者会見はたぶん「花鳥の間」だと思われる。木曽産のシオジ材で板張りされた内装、壁面中段に飾られている30枚の花と鳥の七宝焼き。

 ご興味がおありになる方は、是非一度「迎賓館」のご訪問をお勧めしたい。外国の元首クラスの要人の滞在中は一般公開が中止されるのでご注意を。季節が合えば、正面玄関前の広大な石畳のオープンガーデンで、アフタヌーンティーが楽しめる。せっかくなのでオーダーした。気分はまさにイギリス貴族だった。

 ちなみに建物内部の写真撮影は禁止され、各部屋に監視員が多数配置されている。建物の外は撮影OKで、迎賓館の北側と南側に庭園には写真撮影スポットが多数ある。JRまたは地下鉄丸ノ内線の四ツ谷駅を出て、南に徒歩約5分で迎賓館の正面玄関に到着。そこから西へ学習院初等科前の交差点まで行き、そこから南下するとすぐに迎賓館の西入場口だ。入場料は大人1500円。予約不要。手荷物検査あり。本館入場の直前でイヤホンガイド(200円)を借りることをお勧めしたい。和風別館のみ要予約。

 

 完成から約110年の迎賓館、見学は始めから最後までため息の連続だ。その異次元の空間と時の流れが止まってしまう非日常性に、一度身も心もゆだねてみたい。

(写真は31ページもあるパンフレットを撮影) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020年

8月

11日

外山滋比古先生が逝かれました(追悼)2020年8月11日

 

 

 東京都文京区小石川のご自宅から勤務校のお茶の水女子大学まで徒歩で行かれる。所要時間は約7分。春日通りの横断歩道で信号待ちに引っかかれば、私のチャンスは約1分増える。

 

 秋に行われる寮祭の主催学年である私は、寮のOBである外山先生にカンパをお願いしようと考えていた。1985年(S60年)の秋、今から約35年前のことである。

 

 我々の学生寮は、愛知県の三河地方出身者が入寮する「三河郷友会」という学生寮である。出身地が同郷のため、全員がネイティブの三河弁だ。その三河寮の2階の洗面所の窓から眼下に目をこらし作戦を練った。

 

 平日の朝は、同じ時間、同じ道でお茶の水女子大学に歩いて行かれる。その歩くスピードはびっくりするほど速い。歩くというより小走りに近い。ほんのわずかな時間で私の視界から消えてしまうのだ。この建物の二階の窓から、何度も何度もそのお姿を拝見した。

 

 私は外山先生を「小さな巨人」と呼んでいた。身長が低かったことからそう名付けた。今思えば大変失礼な話だ。小さな巨人は、背広姿に大きな黒いカバン。そしてインパクト満点の黒ブチの眼鏡。「知の巨人」は小柄だった。

 

「外山先生、おはようございます。お急ぎのところ、すみません。ちょっとよろしいでしょうか?」歩行者用信号が緑の点滅から赤になった。

 

 「三河郷友会学生寮の寮生の高原と申します。おはようございます。実はもうすぐ寮祭ですのでOBの方々にカンパしていただけたらと思い、礼を逸してることはじゅうじゅう承知しておりますが、意を決してお願いにあがりましたぁ。」

 

 勢いが肝心だと思い、淀むことなく、大きな声で、先生の目を見ながら力を入れて申し上げた。 

 

 1983年に刊行された「思考の整理学」は、その年の大ベストセラーだった。大学生協で平積みされた単行本は、口コミも手伝って月が変わるごとにその販売面積を増やしていった。

 

 『学校教育はグライダー人間を作りすぎ。自分のエンジンを搭載し自分自身で飛べる飛行機人間を育成すべきだ、その目的に対して最も大切なことは思考力というエンジンだ。そのエンジンを持たなくてはならぬ。そのためには考えるということを大事にしたい。考えて思いついたアイデアはカードに書こう。そして発酵するまで待つべし。

 

 起床後からお昼までの午前の脳の活動は思考活動にはもってこいだ。無我夢中、散歩中、入浴中の三中は思考には最適。etc・・・』

 

 数年後には文庫本となった。いつしか大学生の必読書のランキング上位となった。甲子園で活躍した根尾選手が2019年の秋、中日ドラゴンズにドラフト1位で入団契約した際、愛読書を問われ、外山先生の「思考の整理学」と答えたことで大きな話題となり、彼はは大いに株を上げた。

 

 「三河寮ですかぁ。はい、わかりました。今お時間、ありますか?」

 

「もしあるんだったら、このまま私の研究室まで一緒においでん。来れる?急いどるもんで、時間がないんだわぁ・・・」

 

 「えっ!!研究室??」

 

 お断りする理由などあろうはずがない。コテコテの三河弁の先生のあとをノコノコとついて行った。

 

 お茶の水女子大学の先生の研究室に、恐る恐る足を踏み入れたあの緊張感と幸福感。「ハイっ」と渡された寮祭へのカンパ。両手で押し頂きながら拝受した。

 

 もちろん先生のご自宅の住所、所在は知っている。わが学生寮のご近所。しかしご自宅にお伺いすることは絶対にしてはいけないと思っていた。執筆などのお仕事の邪魔をしてはいけない、筆を折るような野蛮な訪問は決してできない。先生の書斎から綿々と生み出される研究成果を阻害するようなことは絶対にできない、許されない。思案の末、「徒歩での通勤途中」にお声をかけさせていただくことを決定した経緯などについて申し上げた。勢い余って「思考の整理学」と「省略の文学」の、自分なりの書評をも生意気にもお伝えしてしまった。蛇足だった。でも先生は黙ってうなづいておられた。笑顔だった。目がやさしかった。

 

 私はとてもハッピーだった。カンパをいただけたからうれしいのではない。カンパを頂くというミッションを完遂した上に、尊敬すべき偉大な人物の許しを経て、大学のご自身の研究室である「聖域に入ること」ができたことが、恐れ多くもうれしかったのだ。強烈なカタルシス(魂の浄化)があった。

 

 先生はいつも微笑んでおられた。愛知県の西尾で生まれ、大学生として上京されてからはずっと文京区小石川で生活された。そうして年月が過ぎ、300をこえる著書が刊行された。そのどれもが輝きを失わずに、新鮮で鮮烈な閃光を放っている。どれを読んでも面白い。借り物ではなくオリジナル、古くなく新鮮。本物だからであろう。

 

 近著では「三河の風」(2015年展望社)は特に素晴らしい。明治維新後、愛知県三河地方は明治政府から冷遇された。徳川家の発祥の地だからだ。地元民は政府に頼ることなく、自力で、自分たちだけでやっていこうという独立独歩の気風、風土が醸造されていった。その中で自分らしく、かたくなに生きていくことを学んだ。その生き方は、あたかも蚕(かいこ)に似ている。三河地方は養蚕が盛んな土地で、農家は屋根裏で蚕を大事に育てた。蚕に「お」をつけて「お蚕さん」と呼んで大事にした。蚕は桑の葉を食べて白い糸を吐き、繭(まゆ)を作る。色のついたものは色あせるが、白い繭は色あせることなく純白の糸となる。だから「蚕のように私は生きていきたい」という、「三河人」外山先生の強い信念に、共感を覚えずにはいられなかった。

 

 また健康維持のため、皇居一周約5キロを、ご高齢にもかかわらず毎日散歩される外山先生のテレビ番組を数年前に見た。たぶん「三中」の散歩に違いないと思ってそのお姿をテレビの画面越しに拝見した。その先生が2020年7月30日、胆管ガンで亡くなられた。享年96

 

 今週はお盆がくる。先生にとっては新盆だ。わたしは自分の塾で夏期講習の授業をする。中学生の夏期講習用の国語のテキストの問題文は、長田 弘(おさだ ひろし)、小此木 啓吾(おこのぎ けいご)、串田 孫一(くしだ まごいち)など、そうそうたる方々の文章だが、この30年間、学習用のテキストや大学入試の現代国語の問題文への登場機会ダントツのトップは言うまでもなく、外山先生だった。そしてこの先の30年間もたぶんそうあり続けるであろう。知の巨人は死なず、永遠なり。

 

先生、お世話になりました。

先生、本当にありがとうございました。

先生、同郷人として誇りに思っておりました。

先生、これからも今まで以上に先生の文章を精読していきたいと思います。

 

ありがとうございました。

( 合 掌 )

 

2020年8月11日 記