ブ ロ グ

2020年

8月

11日

外山滋比古先生が逝かれました(追悼)

 

 

 東京都文京区小石川のご自宅から勤務校のお茶の水女子大学まで徒歩で行かれる。所要時間は約7分。春日通りの横断歩道で信号待ちに引っかかれば、私のチャンスは約1分増える。

 

 秋に行われる寮祭の主催学年である私は、寮のOBである外山先生にカンパをお願いしようと考えていた。1985年(S60年)の秋、今から約35年前のことである。

 

 我々の学生寮は、愛知県の三河地方出身者が入寮する「三河郷友会学生寮」という学生寮である。出身地が同郷のため、全員がネイティブの三河弁だ。その三河寮の2階の洗面所の窓から南方に目をこらし作戦を練った。

 

 外山先生はその頃、ほぼ毎日同じ時間、同じ道でお茶の水女子大学に歩いて行かれる。その歩くスピードはびっくりするほど速い。ここから見えるのは、ほんのわずかな時間だ。視野に入ってから消えるまでは数秒間。この建物の窓から、何度も何度もそのお姿を今までずっと拝見してきた。

 

 私は外山先生を「小さな巨人」と呼んでいた。身長が低かったことからそう名付けた。今思えば大変失礼な話だ。小さな巨人は、背広姿に大きな黒いカバン。そしてインパクト満点の黒ブチの眼鏡。「知の巨人」は小柄だった。

 

「外山先生、おはようございます。お急ぎのところ、すみません。ちょっとよろしいでしょうか?」信号がちょうど赤になった。

 

 「三河郷友会学生寮の寮生の高原と申します。おはようございます。実はもうすぐ寮祭ですのでOBの方々にカンパしていただけたらと思い、礼を逸してることはじゅうじゅう承知しておりますが、意を決してお願いにあがりましたぁ。」

 

 勢いが肝心だと思い、淀むことなく、大きな声で、力を入れて申し上げた。 

 

 1983年に刊行された「思考の整理学」は、その年の大ベストセラーだった。大学生協で平積みされた単行本は、口コミも手伝って月が変わるごとにその販売面積を増やしていった。

 

 『学校教育はグライダー人間を作りすぎ。自分のエンジンを搭載し自分自身で飛べる飛行機人間を育成すべきだ、その目的に対して最も大切なことは思考力というエンジンだ。そのエンジンを持たなくてはならぬ。そのためには考えるということを大事にしたい。考えて思いついたアイデアはカードに書こう。そして発酵するまで待つべし。

 

 起床後からお昼までの午前の脳の活動は思考活動にはもってこいだ。無我夢中、散歩中、入浴中の三中は思考には最適。etc・・・』

 

 数年後には文庫本となった。いつしか大学生の必読書のランキング上位となった。甲子園で活躍した根尾選手が2019年の秋、中日ドラゴンズにドラフト1位で入団契約した際、愛読書を問われ、外山先生の「思考の整理学」と答えたことで話題となり、彼はは大いに株を上げた。

 

 「三河寮ですかぁ。はい、わかりました。今お時間、ありますか?」

 

「もしあるんだったら、このまま私の研究室まで一緒においでん。いそいどるもんで、時間がないんだわぁ・・・」

 

 「えっ!!研究室??」

 

 お断りする理由などあろうはずがない。コテコテの三河弁の先生のあとをノコノコとついて行った。

 

 お茶の水女子大学の先生の研究室に、恐る恐る足を踏み入れたあの緊張感と幸福感。「ハイっ」と渡された寮祭へのカンパ。両手で押し頂きながら拝受した。

 

 もちろん先生のご自宅の住所、所在は知っている。わが学生寮のご近所。しかしご自宅にお伺いすることは絶対にしてはいけないと思っていた。執筆などのお仕事の邪魔をしてはいけない、筆を折るような野蛮な訪問は決してできない。先生の書斎から綿々と生み出される研究成果を阻害するようなことは絶対にできない、許されない。思案の末、「徒歩での通勤途中」にお声をかけさせていただくことを決定した経緯などについて申し上げた。勢い余って「思考の整理学」と「省略の文学」の、自分なりの書評をも生意気にもお伝えしてしまった。蛇足だった。でも先生は黙ってうなづいておられた。笑顔だった。目がやさしかった。

 

 私はとてもハッピーだった。カンパをいただけたからうれしいのではない。カンパを頂くというミッションを完遂した上に、尊敬すべき偉大な人物の許しを経て、大学のご自身の研究室である「聖域に入ること」ができたことが、恐れ多くもうれしかったのだ。強烈なカタルシス(魂の浄化)があった。

 

 先生はいつも微笑んでおられた。愛知県の西尾で生まれ、大学生として上京されてからはずっと文京区小石川で生活された。そうして年月が過ぎ、300をこえる著書が刊行された。そのどれもが輝きを失わずに、新鮮で鮮烈な閃光を放っている。どれを読んでも面白い。借り物ではなくオリジナル、古くなく新鮮。本物だからであろう。

 

 近著では「三河の風」(2015年展望社)は特に素晴らしい。明治維新後、愛知県三河地方は明治政府から冷遇された。徳川家の発祥の地だからだ。地元民は政府に頼ることなく、自力で、自分たちだけでやっていこうという独立独歩の気風、風土が醸造されていった。その中で自分らしく、かたくなに生きていくことを学んだ。その生き方は、あたかも蚕(かいこ)に似ている。三河地方は養蚕が盛んな土地で、農家は屋根裏で蚕を大事に育てた。蚕に「お」をつけて「お蚕さん」と呼んで大事にした。蚕は桑の葉を食べて白い糸を吐き、繭(まゆ)を作る。色のついたものは色あせるが、白い繭は色あせることなく純白の糸となる。だから「蚕のように私は生きていきたい」という、「三河人」外山先生の強い信念に、共感を覚えずにはいられなかった。

 

 また健康維持のため、皇居一周約5キロを、ご高齢にもかかわらず毎日散歩される外山先生のテレビ番組を数年前に見た。たぶん「三中」の散歩に違いないと思ってそのお姿をテレビの画面越しに拝見した。その先生が2020年7月30日、胆管ガンで亡くなられた。享年96

 

 今週はお盆がくる。先生にとっては新盆だ。わたしは自分の塾で夏期講習の授業をする。中学生の夏期講習用の国語のテキストの問題文は、長田 弘(おさだ ひろし)、小此木 啓吾(おこのぎ けいご)、串田 孫一(くしだ まごいち)など、そうそうたる方々の文章だが、この30年間、学習用のテキストや大学入試の現代国語の問題文への登場機会ダントツのトップは言うまでもなく、外山先生だった。そしてこの先の30年間もたぶんそうあり続けるであろう。知の巨人は死なず、永遠なり。

 

先生、お世話になりました。

先生、本当にありがとうございました。

先生、同郷人として誇りに思っておりました。

先生、これからも今まで以上に先生の文章を精読していきたいと思います。

先生、安らかにおやすみください。本当にありがとうございました。

 

心よりご冥福をお祈りします。 

( 合 掌 )

 

 

2020年

3月

02日

祝 ご卒業  (2020年3月)

 ご卒業、おめでとうございます。

愛知県の県立高校の卒業式が2月28日にありました。公立の小中高は、学校教育法施行規則に基づいて、学校がするべき諸活動をきめています。その中のひとつに「儀式的行事を行う」という文言があり、始業式や終業式を行います。近年では立志の会、二分の一成人式など各校独自の行事もあります。でもやはりこの儀式的行事の極めつけは「卒業式」だと思います。

 

 ご自身の「卒業式」を思う時、それぞれの思い入れがあるのではないでしょうか?

 

 今年の卒業式については、例年通りの卒業式が出来た高校もありますが、コロナウイルスの感染拡大の防止のために例年とは違った卒業式だった高校もあります。

 

 あす3/3は愛知県下の公立中学校の卒業式です。在校生の出席しない卒業式です。短時間での卒業式です。卒業式の直後に校舎の玄関前の広場で、卒業生が繰り広げる「卒業パフォーマンス」イベントも自粛せねばなりません。

 

 送る側の教職員も在校生も、卒業生に感謝とエールを伝えきれない、見送り切れない、そんな感じのする卒業式になるやもしれません。これも憎き新型コロナウイルスの仕業です。卒業生のご父兄の複雑な胸中、そして卒業生の何ともやりきれない切ない思い。受け止めきれない今年の卒業式。

 

 敢えて言えば、国難です、有事です、非常事態です。その中で迎える卒業式です。割り切れないかもしれませんが、ウィルスを警戒しながらも「清新な心」であしたの卒業式に臨んでください。

 ご卒業、おめでとうございます。

 

 

 

2019年

12月

29日

「宿題って、何?」(宿題、宿題って言うけど)(教育の本質論)

 「宿題とは何か?」ということを高校の教員になって初めて考えた。約30年前だ。それまで深く考えたことはほとんど無かった。しかしその時は宿題のことでかなり悩んでいた。保護者からのご意見で「宿題を減らしてください」があれば、今度は逆に「宿題をもっと出してください」もあった。小学生でもあるまいし・・・と思ったが、いや待てよ、これは意外と核心をついているかもしれない、深く考えてみようと思った。

 

 宿題って、いったい何なんだろう?

 

 小中学生は、年度末の春休みは基本的に宿題がほとんどない。夏休みはたくさん宿題がでる。たくさんと言っても毎日少しずつやれば3週間ぐらいで終わる分量だ。そして約40日間という時間を生かした自由研究や工作などの「長期じっくり型」の宿題も可能だ。それに対して冬休みは期間が短い。年末年始の年中行事に関連した書初めなどが宿題となる。

 

 教員時代に私が悩んでいたのは、夏休みなどの長い休みの時の宿題ではなく、学校へ毎日通う通常の学校生活での「家でやるべき宿題」だ。勤務校の実情に合わせて臨機応変に対応させたが、この悩みの原因は、宿題を出す側の立場、宿題をやる生徒本人の立場、保護者の立場という3つの立場が存在することから来ていると思われる。

 

 さらに親の学歴や教育観、生徒の家庭学習習慣の有無、学習単元の内容の難易度、分量、宿題の目的や効果など、「各々の立場での宿題の定義」の範囲が広いことも関係するが、「外部からの強制力」を持った「宿題」は、学習者の主体的、自立的な学習とは距離があるのではないかと思う。

 

そのことを頭の隅に残して、3つの立場をひとつずつ見ていこう。

 

 まず保護者の立場の考えは「勉強する習慣をつけさせたいので出して欲しい」という意見が多い。しかし「うちは習い事が多いので、極力宿題は出さないでください。」や「学校の宿題では対応できない特殊な受験を考えているので余分な宿題は出さないでほしい」などがあった。

 

 次に宿題を出す側の立場の考え方は、宿題を出すのはOKだが「宿題を出しっぱなし」にはしたくないという教員サイドの本音がある。宿題を提出させるのか?させないのか?、もし提出させたなら提出後の取り扱いはどうするのか?、提出課題は評価の対象にするのか?しないのか?などだ。宿題の後処理をどうするかをまず決定し、それから何をどのくらい宿題として出すかを考えるのが筋道であろう。この一連の流れの中で教員としての姿勢をうかがい知ることができるものだ。

 また提出された宿題の出来ばえ、〇付け方法の良し悪し、誤答だった箇所の正答の記入とその後の解き直しや検討、研究などの「振り返り」がやれたのか?やれてないのか?さらに「振り返り学習」後、自力では解決しなかったところを質問したのか?そして解決したのか?など、質問項目の整理のされ方、指導者への質問するタイミングや時間など一連のことが、「宿題を子供たちに出してください」という言葉を保護者から聞いた瞬間に、指導者の頭をよぎる『宿題』となっていることを保護者の方々はあまりご存じないように思う。

 

 今度は宿題をやる立場、つまり生徒の立場で考えてみよう。

学習者のレベルを大別すると、まずはじめは「家庭学習の習慣を身につける段階」、次に「学習習慣がほぼ身についている段階」、さらに次の「成績上位を目指す段階」、そして「成績上位をキープする段階」と四つに分けてみる。

 もちろん「難易度の極めて高いテストを目指す段階」や「その分野での研究者を目指す段階」など、上には上があるがここで論じている「宿題」とは距離を置いているので割愛してもいいかと思う。

 

 ひとつ目の「家庭学習の習慣を身につける段階」の生徒は、基礎基本の反復学習としての宿題が非常に効果的で、小学生の4年生までには家庭学習習慣を確実に身につけさせたいので、学校は宿題を出すのが望ましい。しかし家庭内で保護者の子供への教育力が高い場合は、学校の宿題に頼らなくともそれを養成できるであろう。

 第二の「家庭学習習慣は身についている段階」の生徒は、「わからないをわかるに、わかったら自力でできるに」という目標をクリアさせるための宿題が望ましい。学校の宿題はその目標を達成するための「精選された教材」を宿題とすべきだが、どこがわからなくて何ができないのかを指導者が把握できるもの、そして指導者がそれを把握したら、「わからないをわかるに」、「わかるをできるに」したい。それに見合う教材、課題がほしい。つまり片づけ仕事のようなものではない「精選された教材や宿題」になりうるので、生徒観察を怠らないでほしい。もしそれを怠ると教材や宿題がセレクトできないということになる。

 第三の「成績上位を目指す段階」は、わからないことはほとんどないが、テストで点が取り切れず、この点数では不満だ、じゃあどうする?というレベルなので、学校の宿題にはあまり頼ることなく、自らが自分の弱点を見極めて主体的に、自主的に「問題解決学習」に取り組むべきだと思う。指導者はティーチャーというよりもコーチの要素が大きくなる。宿題という強制的学習ではなく、自主的で主体的な学習にシフトされるべきかと思う。

 第四の「成績上位をキープする段階」になると、勉強は学習というよりも、もはや「訓練」とか「トレーニング」になってくる。「問題集は何回やればいいですか?」とこのレベルの生徒に聞かれると、「ストップウォッチを使って最低5回」とか、「15分を切れるまで」とか、15分を切れたら「30秒短縮して14分30秒にせよ!」となり、やはりトレーニングの感が否めない。そしてここでの最大のポイントは自分を律すること、「自律心」や「自制力」だ。そしてそれをサポートするのがコーチとなる。宿題は一律的なものは不要となり、個々に合わせた独自なものとなる。

 

 家庭学習の習慣化付け→わからないを「わかる」に→わかったら「自力でできる」に→それができるようになったらストレスフリーで「スラスラできるように」→さらに「スラスラ―ッとできるように」という、各段階に合った「適切な宿題」を生徒は望むのである。宿題なら何でもいいから出してほしいとは決して思ってはいないはずだ。

 

 宿題をホームワーク(homework)という。

2020年から文部科学省の方針で学校教育が変わる。いつの日か学校の出す宿題がホームワーク(宿題)を指すのではなく、家庭内教育が学校からの宿題に頼らず、各家庭の中で主体的に計画立案されて本当のホームワークとなることを期待したい。そして各家庭で保護者や年長者の、子供や年少者への家庭内教育力レベルがあがれば、学校から出される宿題は不要になるかもしれない。「宿題とは何か」を考えることは、教育とは何かという本質論ではないだろうか。 

2019年

11月

04日

徳川家康騎馬像(愛知県岡崎市)(おとリバーサイドテラス)

 名鉄本線の東岡崎駅に隣接の北東エリアは、乙川(おとがわ)に面していて「Oto River Side Terrace」(おとリバーサイドテラス)という商業施設ができ、東岡崎駅と空中回廊で結ばれました。商業施設はホテルやレンタカー、飲食店、花屋、コンビニ、エステ、スポーツジムなどがあり、眼下に桜並木の乙川の景色が岡崎公園まで続きます。

 空中回廊の途中の大きな広場に、写真の「徳川家康騎馬像」がつい最近設置されました。

 10数年前から我々一般庶民に募金をつのり、この騎馬像の製作費となって形になりました。

 

 徳川家康は1542年に生まれ、1616年に亡くなります。劇作家のシェークスピアも同じ年に生まれ、同じ年に亡くなります。

 ハムレット、リア王、マクベス、オセロなど、の劇中で登場人物の多くを死に至らせたシェークスピア、天下を取るために辛抱に辛抱を重ね、最終的に豊臣氏を滅亡させた家康。

 

 「人殺しに色々(1542-1616)」。日本史、世界史では語呂合わせで年号を覚えますが、この2人の語呂合わせ、意外に核心を射抜いているように思いますがいかがでしょうか?

 それにしてもこの騎馬像は見るものを圧倒します。一見の価値あり。岡崎市の新しい名所のひとつになりそうです。

2019年

10月

02日

岡崎市の小中学校が秋休み(2019年)

 いつもなら9月23日の秋のお彼岸に咲く彼岸花、曼珠沙華が一週間遅れでやっと咲きました。9月の月初は朝晩涼しくなり少し秋めいて来たと思っていたら、9月中旬以降は夏のように暑くなりました。異常気象を実感します。

 

 かように今年は例年と違うなぁと思うことが多い年です。

平成から令和への改元しかり、5月1日が祝日になったことによる連休の大型化、千葉県を中心とした台風15号による大規模な停電被害、10月消費税10%へのアップ、それと同時に以前の消費税の増税時に発生した景気後退の反省から、それを防ぐための特別減税措置とキャッシュレス決済への誘導政策、挙げればきりがありません。今年は本当に異例です。

 

 きょうは10月2日の水曜日です。

岡崎市は市立の小中学校が今日から三日間の「秋休み」です。

これは極めて異例だと思います。水木金の三連休ですが土日をあわせて五日間の「秋休み」です。岡崎市の小中学校は前期後期制ではなく昔ながらの三学期制です。この秋休みを創設するために夏休みの期間短縮をし、8月28日が2学期始業式でした。

 

 いろいろ考えてみるに英断だと思いました。よい慣習になればと私は賛同します。

 

 「秋休み」を創設した要因はたくさんあると思います。

例えば部活の新人戦を夏の高温を避けこの時期にやりたいとか、夏休み中に教職員の研修が多くて全く休養がとれない、休めない。したがってその代替の休みを秋休みにとってもらい「働き方改革」の一助にするとか、10月半ばの2学期中間テストは1年間の中で最も範囲が広い定期テストだから、この秋休み期間に生徒にテスト勉強をさせたいなどの様々な見方や考え方があります。私は賛成したいと思います。

 

 来年2020年は日本の教育が変わります。学校教育が変わります。大学入試も変わります。今年の異例ぶりが将来にプラスに働くことを願わずにはいられません。そのために研究と修養に私もさらに努めて参りたいと思います。

2019年

9月

02日

2学期が始まりました

 朝晩の気温がすこし涼しく感じられる気温になってきました。少しずつではありますが秋の気配が感じられるようになってきました。

 夏期講習、ありがとうございました。例年と比べると充実した夏期講習となりました。テキストの消化率、消化効率、模試の過去問や2学期の予習も予定以上に進みました。これはひとえにご本人の努力と各ご家庭のご協力の賜物です。ありがとうございました。

 さて学校が始まりました。2学期がスタートしました。2学期は期間が長く、学校行事も多いです。中間テストは10月半ばです。リズム、テンポを速く戻して「勉学の秋」にしていきたいと思います。地道にコツコツと!

2019年

7月

22日

御礼 1学期保護者会

 令和元年の1学期の保護者会(個別懇談)は7月3日からスタートしました。約2週間後の16日に終了しました。ご協力、ありがとうございました。

 貴重なお時間を頂戴してお子様の現状と今後の課題や見通しに関して懇談会を持たせていただきました。保護者と塾が共通の認識を持つこと、円滑な意思疎通がはかれること、保護者のみなさまから塾に対するニーズを把握することなど、多くの成果が得られました。

 保護者の方々から毎回「気づき」を頂戴しますが、これがこちらの「学び」になります。本当にありがたいと思います。今回も勉強させていただきました。

 次回2学期の保護者会は、11月30日から12月18日まで、約3週間です。進路決定の高3と中3は三者懇談で行いますので、よろしくお願いします。

 

 ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします

2019年

5月

26日

迎賓館 赤坂離宮でのアフタヌーンティー

 

  令和になって初の国賓としてアメリカのトランプ大統領が昨夜来日した。首脳会談や記者会見が行なわれる東京の赤坂にある迎賓館は、日本を代表する西洋宮殿建築で、現在は国宝に指定されている。明治以降の建造物で国宝に指定されているのはこの迎賓館のみである。

 東京での学生時代を送った1980年代、暗闇の中に浮かび上がるライトアップされた迎賓館の荘厳さに、私は圧倒された。まるでヨーロッパにいるみたいだった。

 それもそのはず、建設当初は皇太子の御所とし明治42に完成した西洋宮殿なのだ。赤坂離宮と呼ばれるのはそのためである。しかし戦時中空襲の被害にあった。焼夷弾の直撃を受けた天井は、雨漏りがひどく天井画や内部の美術品も荒れ果てた状態だったそうだが、戦後復興とともに海外からの賓客の増加により、国の迎賓館を設ける必要からこの赤坂離宮を迎賓館にすることになり改修され、1974年(S49年)に晴れて「迎賓館」として開館した。そして2009年(H21年)には国宝に指定された。2016年(H28年)から広く一般に公開されるようになり、国賓を迎える現役の迎賓館を望めば見学できるようになった。一度は行ってみたいと思っていたのだが、本年(2019年)4月、念願がついに叶った。

 初めて足を踏み入れた迎賓館は驚きの連続で、その豪華さに完璧に打ちのめされた。

北を正面にして鳥が羽をひろげた姿のシンメトリの西洋宮殿で、地下1階・地上2階の鉄骨レンガ造り、外壁は花崗岩、屋根は緑青で葺かれたネオ・バロック様式の外観である。建物内部の各部屋は、部屋ごとに室内装飾様式を変えている。

 正面玄関と大ホールは、深紅の絨毯が導く壮麗な空間だ。アンリ2世様式の「花鳥の間」、ルイ16世様式の「羽衣の間」、アンピール様式の「彩鸞(さいらん)の間」と大きな部屋が3つある。各部屋は細部までこだわったすばらしい意匠が施されている。重さが1トン以上もあるフランス製のシャンデリヤが何基もあり、天井画、美術工芸品も一見の価値がある。

 明日の日米首脳の記者会見はたぶん「花鳥の間」だと思われる。木曽産のシオジ材で板張りされた内装、壁面中段に飾られている30枚の花と鳥の七宝焼き。

 ご興味がおありになる方は、是非一度「迎賓館」のご訪問をお勧めしたい。外国の元首クラスの要人の滞在中は一般公開が中止されるのでご注意を。季節が合えば、正面玄関前の広大な石畳のオープンガーデンで、アフタヌーンティーが楽しめる。せっかくなのでオーダーした。気分はまさにイギリス貴族だった。

 ちなみに建物内部の写真撮影は禁止され、各部屋に監視員が多数配置されている。建物の外は撮影OKで、迎賓館の北側と南側に庭園には写真撮影スポットが多数ある。JRまたは地下鉄丸ノ内線の四ツ谷駅を出て、南に徒歩約5分で迎賓館の正面玄関に到着。そこから西へ学習院初等科前の交差点まで行き、そこから南下するとすぐに迎賓館の西入場口だ。入場料は大人1500円。予約不要。手荷物検査あり。本館入場の直前でイヤホンガイド(200円)を借りることをお勧めしたい。和風別館のみ要予約。

 

 完成から約110年の迎賓館、見学は始めから最後までため息の連続だ。その異次元の空間と時の流れが止まってしまう非日常性に、一度身も心もゆだねてみたい。

(写真は31ページもあるパンフレットを撮影) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年

5月

03日

新元号への改元に思う

 昭和64年1月7日に昭和天皇が崩御された時、私は東京で三河郷友会学生寮という寮に住んでいた。その寮生の10数人がテレビ局でアルバイトをしていた。年末年始の局内は例年でもかなり多忙なのだが、この年末年始はさらに物凄い緊張感が日に日に増して来ていた。天皇崩御の可能性がかなり高くなったからだ。そして1月7日から日本国民全体が喪に服した。祝い事はもちろん自粛、通常なら何でもないことなのに「今はそれは自粛してください」と周りから諭された。誰もかれもが困惑した。その強制された「自粛ぶり」は異常とさえ思えるほどだった。物凄く困惑した。それは1月末まで続いた。

 しかし私は以前から計画していたヨーロッパ旅行のため1月末に日本を後にした。約2か月間の旅、フランス、スペイン、ポルトガルの旅だった。フランスの空港で現地TV局の取材を偶然にも受けた。「日本で天皇が亡くなったことを日本人としてどの様に思うか?」「日本の戦争責任は?」

 喪に服すとは悲しみの中にいるということだ。この状況の中で、私は私個人として答えるべきなのか、はたまた日本国民を代表した一般的な答え方をすべきなのか、困った。ポルトガルに行ってもスペインに行っても現地で仲良くなった外国人から同じような事を聞かれ同じように迷った。

 

 あれから約30年過ぎて「ありがとう」や「おめでとう」という表現が似合う今回の改元となった。笑顔でいっぱいの改元なのだ。昭和から平成になるときの「強制的自粛と困惑」は今回は皆無だった。

 がしかし退位、改元、即位の流れの中で忘れてならぬことがある。「譲位」を忘れてはいないか。「譲位」ありきの今回の改元であろう。それに伴い「皇太子が今、いない」ということも忘れてはならない。別の意味での困惑が出てきてしまったのは否めない。

 

 梅の花のように、未来への希望を咲かせる国になりますように

 

 人々が美しく心を寄せ合うことができますように

 

「素敵な元号のもと、素敵な人生を送ることを目指して、青春の夢を誠実に希求しながら、精一杯の努力をしていける塾生を私は育成するのみ」と改元を機に強く決意致しました。

(写真は平成31年4月14日に皇居前にて撮影)

 

2019年

4月

02日

サクラ、サク!

 桜はどうしてこの時期に一斉に咲くのかなぁと子供の頃から不思議に思っていました。桜の開花予想はどのようにしてきめるのか不思議でした。

 

 それを研究する植物学者が大勢いて学問として成立することで、私たちの生活は豊かになっていきます。

 

 2月1日から毎日毎日の最高気温を足し算していき約600度になる頃、桜が咲き出すという学説を発表した学者がいたことで、開花予想がかなり正確になったそうです。

 

 名古屋は3月22日に累計温度が600度になりましたが、実際の開花宣言もぴったり22日、お見事でした。

 

高校入試も大学入試も塾生みんなががんばってくれたおかげで合格できました。3月中旬の「受験終了パーティ」、たのしかったです。

 

  サクラ、サク。 お見事でした。

清新な気持ちで4月がスタートできますように。

みんな、頑張ろう!先生も頑張ります!

 

2019年

2月

26日

桜と兵隊

  1945年(S20年)8月、第二次世界大戦は日本の敗戦をもって終結した。中国の徐州というところで私の父は兵役についていた。戦争が終わると多くの日本兵が捕虜となった。捕虜として労役に従事し、首を長くして帰国を待ち続けた。 

 昭和21年4月、その船は多くの日本兵を乗せ長崎県佐世保に接岸。やっと祖国の地に立てた。うれしかった。佐世保港は満開の桜だった。自然と涙があふれてきた。そしてそれは決してとまることがなかった。

 

 父が死にました。桜を見ると涙する父でした。享年95

 

 花見と花火の街、愛知県の岡崎で生まれた。お国のために、地域のために、家族のために、最後は100才目指し自分自身のために、よく頑張った。すごい父だった。大好きだった。戦前の岡崎市には「本多賞」という特別な賞があった。成績優秀な小学生、中学生がその学区でたった一人だけ選ばれる。父はその栄誉に浴した。もし戦争がなければ、もし徴兵されなければ、もし今のような平和な世の中だったなら、その才能と努力で立身出世もできたであろう。しかし父はそれを愚痴ることなく、戦前・戦中・戦後・平成と懸命に生き抜いてきた。 

 

 ものすごい努力家で多芸多才だった。琴棋書画(きんきしょが)(音楽・囲碁将棋・書道・絵画)すべてこなした。バイオリンや社交ダンス、囲碁、水墨画などなど。バイオリンは毎日毎日練習していた。また年賀状の作成において、その才能は輝き続けた。はがきというキャンバスに水墨画や水彩画を描き、毛筆で年頭のご挨拶を回文(前から読んでも後ろから読んでも同じ読み方の文)をしたため、宛名も毛筆書きで約300枚、50年以上続けた。しかしその努力を決して他人にはひけらかさなかった。謙虚だった。晩年は将棋を毎日打った。懸命に生き抜くその姿勢は、周りの人たちに多大な影響を及ぼし続けた。

 

 死は残酷だ。亡くなるとすぐに葬祭業者を決めなければならない。病院の霊安室から葬祭場へ亡き骸を搬送すると係の方との打ち合わせが始まる。長時間。その打ち合わせの最後に家族全員で頼んだ。「父にサクラをどうしても見せてやりたいです。祭壇に桜を飾れませんか。お願いします。なんとかなりませんか?」と頭を下げた。日本国中探してみますが、もし見つからなかったらごめんなさいという回答だった。2月下旬、無いかもしれぬ。

 

 告別式当日、左右一対のさくら木が祭壇にありました。父さん、サクラが咲いたよ。見える?本物のさくらだよ。95年間よくがんばったね、ありがとね。

 

 桜咲き 母となかよく 花遍路

     南 無 阿 弥 陀 仏

 

 四国八十八ヶ巡りを亡くなった母と夫婦ふたりで2度行きました。四月初旬忌明けの頃にはあちらの浄土でお遍路さんか?夫婦仲良く、長旅を楽しんで下さいね。ご苦労様でした。

とてつもなく立派な人生でした。人生とはいかに生きるべきかということをたくさん教えてもらいました。残された我々家族は父さんに教えてもらった、「与えられた条件を嘆くことなく、その条件の下で懸命に頑張る」所存でおります。育ててくれてありがとう。空の上からどうか家族を見守ってください。ずっと見守り続けてください。よろしくお願いします。

いままで本当に、本当にありがとうございました。多謝

 

夜空の星がまた一つ増えました。

 

 合 掌

2019年

1月

30日

「自分を鍛える」高1 お寺での修行(その15)

「親の覚悟」 副住職との話しの途中に次のような合いの手が何度も入った。「親がそれをよく許したねぇ」。この言葉に凝縮された「親の葛藤や覚悟」を当時の私は全く気付いていなかった。

 

 5年間の保育園通いや小1からの家庭内料理や中学校での部活はともかく、「小学2年生からの新聞配達」を親が許したことを指して言っているのだ。小2、小3、小4と計3年間続いた夕刊の配達。交通事故のリスクがあまりにも大きい。危ない。徒歩での配達ではなく自転車での配達だからさらにリスクは大きい。親が諸条件を全部洗い出し、メリットとデメリットを明らかにし、検討し、夫婦での議論を経ての最終判断はかなりの「覚悟」を伴ったはずである。でも高校1年生の私はそのことに全く気付いてすらいなかった。親の心子知らず。

 

 家が貧しいから新聞配達を子供にさせたわけではなかった。子供の自立性、規律性、責任感、そして「忍耐力の養成」が主目的だった。我慢のできる子にしたいという親の考えである。実際私が小学校入学当時の我が家の経済状況は「中の中」で、裕福ではなかったが特に貧しかったとは言えない。普通だと思われる。

 ところが10才上の兄の小学校入学当時はかなり貧しかったのではないかと思う。それは昭和32年頃で戦後約10年が過ぎた頃である。当時は日本中のすべての世帯が貧しかったのではないか。その当時写真館を経営していた親戚がいたせいか、当時の生活がわかるスナップ写真が我が家にはたくさんあり、それらの写真からその様子が分かる。カギ裂きになった学生服は丁寧につくろわれ、穴のあいた靴下は強度を落とさないように修繕され、そしてまた穴があいても何度も何度もつくろい直すのが普通だったことが、どの写真からも見てとれる。衣食住における「使い捨て」の風潮はその頃は皆無であった。貧しさや質素な生活の中で「もったいない」という感覚や「ものを大切に使う」という日本の美徳が生活に満ち満ちていた。壊れたら補修して使うのはあたりまえであった。

「戦後の日本の、経済的な貧しさ」が昭和30年代には確かにあったのであろう。戦争後の10年間は生きることに精一杯で明日をもしれぬ、ぎりぎりの生活だったに違いない。「下を見て生活し、上を見て働く。」それが「すこしでも豊かになりたい」というエネルギー源となって高度経済成長へと繋がり、1968年(昭和43年)にはアメリカに次ぐGNP世界第二位の国として経済発展をとげた。私は小学校の2年生だった。

 

 平成10年4月、私の長女の小学校入学の祝い膳の時だった。私ども夫婦、娘二人、義理の母、そして私の父と母の計7名での長女の成長の節目の食事会が開けた。祝い事があるということはありがたく、幸せなことだ。この時私は、自分の小2の時の新聞配達を親として許可するかしないかの判断した時のことを知りたくて、父と母に質問した。

 すると父が「小2の子供の新聞配達」に関して、親としての葛藤と覚悟について次のように語り出した。「大正生まれの我々の世代は、戦争に行かされた。戦闘機の機銃掃射を受けたり、空爆された街が炎上するのを見てきた。戦争を通して『生きるということ』をもの凄く考えさせられた。

 生きるというのは、衣食住だけではダメだ。それに加えて教育と訓練がいる。我が家の子供の教育メニューに、新聞配達をさせるという選択肢はなかったので、新聞店の店長が我が家を訪問したいという申し出を『これはいい機会かもしれない。チャンスだ。』と考えた。お父さんとお母さんは『我が家の子育ての方針』についてかなり話し合った」と聞かされた。初めて聞く話だった。私自身が小学校に入学してから30年が過ぎていた。

 

 私は小学校の低学年の自分の長女を見ながら「この幼子に新聞を配達させること、新聞を配達するのを許可すること」を親として決断できるか?という自問自答を何度も何度もした。親だからこそイエスと言えるのか?それとも親としてはまだ未熟だからイエスと言えないのか?

 

 私が「親に成りきれてないのかなぁ?」と質問すると「親になるというのは三段階ある。」と父が言った。

 「女は子供を産めば親になる。男は子供に名前を付けることで親になる、というのが第一段階。」「次は食べさせていくことで親になる。親はそのためには当然働かねばならない。」「最後は、子供の自立を目的とした訓練やしつけをすること。これが第三段階。これが実に難しい。大変なんだ。本当に難しい。」

「親は子供より早く死ぬわけだから遅かれ早かれ居なくなる。だからいつ親が居なくなってもやっていけるようにするのが親の努め。子供を自立させるためには、親が子供のために家でしていたことをすこしずつ子供にやらせてみること。時には失敗させてみること。そこから学ばせること。失敗してもいいから挑戦させること。そうすれば強い子になってくる。打たれ強い子になってくる。親も強くないといけない。親が強くならないと、子供は甘えてばかりいるダメな人間になってしまう。第一段階と第二段階はともかく第三段階は親側の覚悟がかなり要る。難しい作業だ。」

 

 昔から「獅子の子落とし」や「可愛い子には旅をさせよ」などの故事成語やことわざは、子供の成長段階を見極め、その成長が一定の段階を超えた時、「親としての覚悟」が必須となり、親が子の真の成長を願えば願うほど「厳しい親」となって子供の「本当の成長」を促せるということを言っているんだなぁということを、この時に初めて理解した。

 

 この日を境に、「やっぱり俺にはできないなぁ、小2の、自転車での夕刊配達。許可できないなぁ、苦しいなぁ、俺は親としては「ひよっこ」だなぁ、まだまだだなぁ、、」と反省の日々が続いた。

悲しかった。

(つづく)

 

2019年

1月

19日

センター試験が始まりました。センター試験の功罪は?

 きょうは平成31年1月19日の土曜日です。大学入試センターの「センター試験」が今日と明日の2日間実施されます。きょうは文系の科目、あしたは理系科目です。

 現役高3生と浪人生がその実力を発揮して悔いのないセンター試験となるのを祈るばかりです。自分を信じて頑張れ!

 

 センター試験は来年が最後です。大学入試改革による制度の見直しのためです。センター試験は約30年つづきました。その前は「共通一次試験」でした。筆者はその「共通一次試験」元年に大学入試を受けました。共通一次試験は国公立大学を志望する受験生のみのもので、5教科7科目を受験するシステムで受験生の負担過多がいわれましたが、それ以上に問題だったのが受験生の学測定が正確にできないということでした。極端な言い方をすると100点満点で、30点か90点か、という問題でした。また高得点をとるために高校や予備校も「知識詰込み型のカリキュラム」を採用していくことになり、公立高校は「学校教育法施行規則」や「指導要領」などの法律や規則を犯して見て見ぬふりしてカリキュラム編成をしました。教育現場は法律違反だらけでした。違法でした。また国公立大学側は知識詰込み型教育で育った入学者の「質の悪さ」に嫌悪感を表明しました。と言いつつ一次試験の合計点による「二次試験を受けれるか、受けれないかという足切り制度」を実施し問題化しました。しかし日本で初めての「統一テストを経て大学へ入るという壮大なシステム」を10年間トライした価値はありました。その功罪を検証して次のシステムに発展できました。

 

 「大学入試センター試験」です。国公立だけでなく私立大学も参加させることや、30点か90点かという問題ではなくなったことや、英語のリスニングテストの導入など大きな改革となって「共通一次試験」の10年間の経験は無駄ではなく次のシステムに生かされ、大きな果実を実らせました。まだまだではありますが「平等で正確な学力測定」にかなり近づきましたし、英語のリーディングに関しては、共通一次試験の、重箱の隅をほじくるような問題から、センター試験の英語のテストは「ざっくりでいいよ。大体何が書かれてますか?」というスタンスに変わりました。1分間で英単語100語程度の読解能力があれば良し、という読解スピードの目安が示されもしました。センター試験の功罪の「功」の部分です。

 

 功罪の「罪」は何といっても「数学」です。数ⅠⅡⅢABC6科目の領域変更が数年前にありましたし、統計学(データ分析)の分散や標準偏差や共分散や相関関係や四分位数や箱ひげ図など、コンピューターにやらせればいい計算を今は手計算でやらなければならなくなりました。数学に関しては「共通一次試験」の数学と比べると、「センター試験」の数学の方が負担増だと言えます。高校のカリキュラム編成にも数学重視であることがよく分かります。進学重視の公立高校の高1は「高校生に成り切る」ために早くて6ヶ月かかります。毎日の家庭学習時間の五分の四以上は数学に費やされます。いわゆる「数学地獄」に耐えて忍んで時間のやりくりを覚えて10月末頃に「勉強の背骨」がしっかりしてきます。(勉強の仕方、やり方で「勉強の背骨」をつくりたい!ので後日このブログでお話させていただきます。)

 

 そしてセンター試験は廃止され次のシステムになります。廃止理由はたくさんありますが、簡単に言えば「時代の変化」と「思考力の養成」です。インターネットやスマートフォンが出てきました。時代の変化は新しいものを生み出します。古いもの半分は無くなり新しいのもと入れ替わります。江戸時代に存在した職業の55%が無くなりました。でも45%は今もあります。あたらしく置き換わった55%の職業は、「最新の知識と技能」が必要でした。50年先、100年先を考えたとき、今ある職業のうちの55%はなくなるかもしれません。もしそうなった時、「最新の知識と技能」が必要なのです。

 

 それに対応していきたいということで「学習指導要領変更」と「大学入試改革」が行われるのです。(この件についても後日このブログでお話いたします。)

 

 きょうのセンター試験、お疲れ様でした。あしたもう1日あります。あしたも6時起きですね。弁当を楽しみに、自分を信じて、「いってらっしゃい。」

2018年

12月

19日

「自分を鍛える」高1 お寺での修行(その14)

「苦労は買ってでもしろ」 昭和51年の8月になった。もうすぐお盆だ。お盆の頃、お寺はものすごく忙しい。盂蘭盆会(うらぼんえ)のためにまず忙しい。そして次にお施餓鬼(おせがき)で忙しい。施餓鬼は一年のうちのいつでも良いのだが、檀家の方々はお盆のころにまとめてすることが多く、お寺は猛烈に忙しくなる。

 8月13日からお盆は始まる。ご先祖さまの魂が13日の夜、各家庭に戻ってこられ、3泊4日し16日の夜、彼岸へ帰っていかれる。13日の夜に「迎え火」(門火)を焚き、16日の夜に「送り火」を焚いてお見送りをする。京都の大文字焼きの送り火が有名だ。

 

 「ことしのお盆の法会(ほうえ)は準備から例年以上に忙しくなりそうなので、高原君も手伝ってください。住職があなたとゆっくり面談している時間がたぶん取れないと思うけど、以前あなたに出された『宿題』は8月15日までに私の方に出してください」と副住職がおっしゃられた。

 副住職に返事をしながら頭の中ではご住職のことを考えていた。最近のご住職は、かなり疲れがたまっているようにお見受けする。夏の暑さや忙しさで疲れ、そして回復するどころか、どんどんたまっているように私には見えた。

 さかのぼること約30年前、「シベリア抑留」という、酷寒の地での劣悪な生活環境と過酷な労働で膝や腰を痛められたご住職だ。冬になるとその古傷が今でもかなり痛むらしい。

 そもそもお寺の僧侶は、職業柄、膝を痛める可能性が高い。朝2時間、夜2時間、1日に最低でも4時間は正座をしなければならない。さらにお勤めの読経の最後の最後には、「南無阿弥陀仏」と唱えながら正座→座礼→起立→立礼→着座を10回繰り返すのが浄土宗の所作なので、膝や腰を痛めている僧侶にとっては大変だ。かなりの痛みに耐えなければならない。ご住職が膝の痛みをおして法要をお勤めになられていることは、末席の私にもひしひしと伝わってきていた。

 

 「ところで高原君、少し話の出来る時間がありますか?」

副住職からの声かけに「はい、大丈夫です。たくさんありまーす」と返事をしたら、「少しでいいよ、残念ながらこちらにたくさんの時間がないよ。」と笑われた。「ひとつ聞きたい事があるんだけど。」ハイ、「よーく辛抱してこのお寺についてきていると思いますが、なんでそこまで高原君が我慢強いのかと住職が感心しているし、わたしもそう思ってます。なんでかな?その理由?」

 えっ、何とおこたえすべきか困ったがそのようにおっしゃってくださるのは光栄だ。「あのぉー、何と言っていいか分からないですけど、自分からこのお寺で修行させて下さいと無理なお願いをした以上、与えられた責務を果たしたいし、自分の責任は自分で取りたいですし、言い出した以上は尻尾を丸めて逃げ出すこともできないですし、だから一生懸命に頑張ろうという気持ちだけでやってます。」と申し上げたら、「うん、それはわかってます。それではなくて、それだけではなくて、何か別のもの、何か忍耐強いものを感じます。おそらく小さいときにその忍耐力が養われた何かがあると思うのだけど、その何かを知りたいと思ったので・・・」

 

 幼少期の頃のことをあれこれ考えてみた。「苦労は買ってでもしなさい」

 

 親から毎日のように言われた言葉だ。大正13年生まれの父は20才で徴兵され戦場に行った。昭和2年生まれの母は、兄ふたりが戦死している。戦争で青春時代を奪われた父と母との間の次男として私は生まれた。父は公務員、母は看護婦(看護士)だったので、2歳から浄土真宗系の保育園に行った。行くのが嫌になったことは一度もなく、本当に楽しかった。お迎えが誰よりも遅かったのでほかの園児が帰った後は保育園の運動場で辺りが暗くなるまでひとり遊びをずっとしていた。ひとりで練習して自転車にも乗れるようになっていた。鐘つき堂の横の大きなイチョウの木に登って足で枝をゆすって銀杏を落とすのが面白かった。保育園には5年間通った。小学校1年生の時、近所の小6のお兄ちゃんが夕刊を配達していた。自転車で毎日ついて行った。配達の順序は自然に覚えた。そのお兄ちゃんが中学校に入学すると部活で夕刊の配達できないということで、私に白羽の矢が立った。迷わず分かったと返事したが、新聞店の店長が家に来て親と話した。承諾するかどうかについて親はかなり悩んだと後になって聞いた。その新聞配達は結果的には小2になったばかりの私の仕事になった。生まれて初めてのアルバイトで、日曜日以外の週6で配達した。部数は約80部、80軒。自転車に乗り約1時間半かかった。小2から小5の終わりまで、雨や台風や雪にもめげず4年間休みなく続けた。新聞配達を終えて新聞店に戻ると翌日の朝刊に入れるチラシの折り込みを30分ぐらいやった。チラシの折り込みをやると新聞店の店長がお駄賃をくれるので、帰りがけにアイスクリームを買ったり、寒い時期は肉まんを買って食べるのが楽しみだった。

 うちは両親が共働きなので、家に一番先に帰った者が家族4人分の夕食を作るというのが我が家のルールだった。小1から適用されるので小学校の入学式の前日、「あしたからお料理の練習をしてもらう、10才上のお兄ちゃんが料理の先生だ。」という説明が両親からあった。まずは生きるための食べれるものを作る、けがをすることなく安全に作る、火事を起こさぬよう、火に気を付けて作ることが目標だった。兄がまずやって見せ、少しずつ覚えた。兄の教え方もうまかった。少ししてから料理の審査会、品評会を年に数回おこなうようになった。その課題が学年が上がるにつれて難易度も高くなった。小1はご飯を炊いて野菜いためとみそ汁など、一汁一菜に海のものと山(陸)のものを必ず入れることを基本とし、たまご料理、焼き飯、ラーメン、うどん、そばなどだった。小2はシチュウー、カレーライスなどの煮込み料理。小3はコロッケ、メンチカツ、とんかつなどの揚げ物と焼き物。小4は肉じゃがなどの煮物や冷菜、小5はオムライスなど彩りや見場のいい料理や天ぷらや揚げドーナツや寒天やゼリーなどデザートやお菓子、小6は茶碗蒸しなどの蒸し料理が課題となった。大量の油を使う料理法は家族がいる時のみ許可された。小1だった昭和42年、我が家には電気炊飯器はあったが保温機能が付いた電子ジャーはなかった。その当時、世の中に保温付き電子炊飯ジャーもなかっし、電子レンジもなかった。それが普通だった時代だ。「これ、チンして食べてね」という日本語は昭和48年以降に出来た日本語だと思う。だから炊きたて以外のご飯は常に冷や飯だった。それを調理して焼き飯にすることはとても大事なことだった。ちなみに電子レンジが我が家に来たのは小6の時で、調理方法に劇的な変化や改革をもたらした。どちらにせよ「料理をすること」は勉強と同様で、自立の第一歩だと思った。

 小5、小6は児童会の副会長や児童会長をやった。中学に入ると部活の朝練が6時半から8時まで毎日あった。部活がなかったのは1年間で7日間だけで、いわゆる「盆、暮れ、正月」、8月15日と12月29日~1月3日だけだった。学校や部活を休むということは言語道断、遅刻することも「犯罪」だと我々は教えらた。今では考えられないが当時としてはそれが普通だった。

 

 「そうかぁ、なるほどねぇ。保育園と新聞配達、そして台所仕事に部活だね、たぶん。」

 

 副住職には合点がいったようで、「小さいときからかなりきたえられたわけだ。それが当たり前だと教えられて育ってきたんだ。小さいときからの下地がその我慢強さの基礎にあるわけだね。最近はお寺の坊主として若者が10人入門すると厳しさに耐えられず4人ぐらいはすぐやめていなくなっちゃうからねぇ。ありがとう、よくわかったよ。」

 

 副住職と二人きりでお話したのは後にも先にもこの時だけだった。副住職があまりにも忙しかったからである。あれから40年以上たつが、あの時、逆に私から副住職にお寺のことや仏教のことや人生の処世訓や修行そのものについて、いろいろお伺いしたかったなあと強くおもうことがある。朝のお勤めで拝見するその後ろ姿は強く、尊敬の念を抱かせた。凛とした雰囲気が住職や副住職には備わっていた。すごいと思った。もし自分が僧侶を目指し仏門修行をしたならばそこまでいけるのか?どのくらい頑張らないといけないのか?我慢強いと評価されたとしてもこの私が果たしてこの厳しい修行を我慢できるだろうか?

 

 「分かったよ、高原君のこと。住職がおっしゃられた通りだ。」と笑顔でおっしゃった。

 

「『苦労は買ってでもしろ』というのは正しいと思います。」

 

私は副住職の目を見ながら申し上げた。

(つづく) 

2018年

12月

02日

秋は長丁場です。(第3ターム)

 「竹影 堦を掃きて 塵 動ぜず」(禅語)

(ちくえい かいを はきて ちり どうぜず)

 

 晩秋、期末テストが終わります。第3タームは、21日の終業式までです。

 中3は終業式までの期間は、なぜなのかは分かりませんが全くもって忙しくありません。中間テストや期末テストで忙しかったのもかかわらず、12月初旬と中旬は本当に忙しくありません。時間があるからと言ってゲーム三昧では困りますね。この時間を進路決定のためにうまく活用してください。中学校で進路決定のための三者懇談会もあります。「自分と向き合って高校選びを真剣に考えること!」

 高3はあと7週間で「センター試験」です。もう逃れられません。腹を決めて受験の準備を確実に進めるべし!12月22日は冬至、昼の時間が一番短く、夜の時間が一番長い日です。長い夜に勉強がはかどりますように。(祈)

 

 冒頭の「竹影・・・」は禅の言葉です。頭の中でイメージしてください。

月明りで竹の影が障子に映っている。そよ風が吹いていているのか、映っている竹の影は揺れている。竹が、笹があたかもほうきのように、堦(かい)(寺の階段)を掃き清めている。障子にはそのように映って見える。がしかし実際にはお寺の階段の上の塵(ちり)は掃かれることなく、全く動きはしない。動かない。・・・

 

いかがですか?映像化、できましたか?

 

 動の中に静あり。静の中に動あり。心を整えよ。激しく動く心の中にも静かなる心ありて,

動ずることなし。静かなる心の中に激しくたぎる心あり。心の目でその動かざる塵(ちり)を見よ。精神的な安定と充実は、呼吸を整えること、そして心を整えること。 

禅語「竹影 堦を掃きて 塵 動ぜず」(ちくえい かいを はきて ちり どうぜず)は事を成すための勘どころを抑えています。

 

冬がそろそろ始まります。

2018年

10月

27日

秋は長丁場です。(第2ターム)

中間テストが終わりました。この2学期中間テストは定期テストの中で一番範囲が広いテストです。範囲の最初は1学期の期末テスト後の授業内容です。範囲表から学校の先生の考え方を伺い知ることができます。塾から見ていると「この学校の社会の先生は、定期テストで生徒を評価するという観点がすこし甘いなぁ」とか「なんでこの範囲なんだろう?1年間の授業計画から考えると、学校の進度がおそらく6週間は遅いなぁ」ということが分かります。またその逆もあります。「なるほど、たぶんこれは深い考察があってこの範囲なんだ!」と感心することもあります。

 

中間テストが終わころコスモスが咲き出します。中学校では文化祭に向けて準備が始まります。同時にクラス対抗の合唱コンクールに向けて、各学級では練習が始まります。集団生活、集団活動です。

 集団活動では3つのポイントがあります。

1つめは、「声合わせ」です。「おはよう」に対して「おはよう」と返す。「楽しいね」と聞けば「楽しいね」と伝える。おうむ返しがたいせつです。

2つめは、「動き合わせ」です。集団で同じことをすることを指します。同じ動きをすることで、リズムやテンポを合わせます。合わせるのが最初はめんどくさいのですが、すこしするとだんだんわかってきてリズム、テンポがかなりそろってきます。共同体のメンバーとしての感覚も少しずつ湧いてきます。

3つ目は、「息合わせ」です。相手の目を見て相手の言いたい事を感じたり、タイミングをピタッと合わせたりするのは、とても難しいことです。息が合わないとできません。指揮者の合図に全員で息を合わせる合唱は、その極地でもあります。だからこそ息の合った合唱は、人を感動させることができるのだと私は思っています。

 

また1つめのポイントと2つめのポイントができるようになると、そこが自分の「居場所」にだんだんなっていきます。さらに3つめのポイントが上手くいけたならば、もう既にそこは離れられない「大切な居場所」になったということです。

この3つのポイントを押さえて合唱コンクール頑張ってください。

 

2学期の第2タームに入りました。塾は10月末からお休みに入ります。11月5日(月)に再開しますが、期末テストまで約3週間前にあたります。次の目的地に向かって地道にコツコツ、お願いします。

2018年

10月

07日

秋は長丁場です。(第1ターム)

9月23日は秋分でした。秋のお彼岸です。春と秋、年2回のお彼岸にタイミングを合わせて咲く曼珠沙華(まんじゅしゃげ)、彼岸花は真っ赤でした。カレンダー通りに咲き、そしてあっという間に枯れてしまいます。

翌24日は十五夜、中秋の名月でした。夕方の6時半ごろ、とても綺麗にみえました。25日の「十六夜」の月、立待月も見えました。26日の「十七夜」の月、居待月も見えました。27日の「十八夜」の月、寝待月も見えました。四日間の月見ができたことで、今年はついてるかもしれないと思いました。

 

 秋は長いです。学校の2学期は長丁場です。この2学期を3つに分けると、第1タームは10月の中間テストまで。第2タームは期末テストまで。第3タームは終業式までです。

 

 第1タームの中間テストですが、中学生、高校生にとって2学期の中間テストは、定期テストの中で1番テスト範囲が広いテストです。周到な準備が必要です。

 高校1年生にとってこの2学期中間テストは大事な「関所」です。進学校と呼ばれる高校では、高校生になり切るのに入学してから最低6ヶ月かかります。

 

 私が考えている「理想の高校生」像は、自主的、自発的な学習ができること、それでいて計画的な学習ができること、教師からのアドバイスを参考にできること、可能な限りの努力ができること、目標の遂行のために私利私欲を我慢できること、1週間を保つ生活体力があること、「学習課題のリスト」などのワークシートがビジュアル化してあること、そして15分間の空き時間があれば「これを勉強する!」というような時間の有効活用ができること、緊張した心と体を瞬時に開放するリラックス法を持ち、心が整えられること、勉強の中に楽しみ(遊び)を発見できること、そして挨拶・返事・あとかたづけができること。これが私の考える、理想の高校生像です。

 

 この理想像に向かって日々努力しているにもかかわらずそれができず、自己嫌悪を痛感するということを繰り返しながら、高1生は高校入学から今まで来ているのです。特にテスト範囲の最大に広い2学期中間テストの、山積みされた提出物の課題をこなしていく過程の中で、鍛えられ、成長し、「高校生に成りきる」わけです。

 

 秋は長丁場です。中間テストを乗り越えて第1タームは終了します。

2018年

9月

04日

「自分を鍛える」高1、お寺での修行(その13)

 隣室の修行僧のアドバイスは、学校で授業を受ける以上に勉強になった。そもそも学ぶ、習うという行為は、目的に向かって努力することだ。でもただやみくもに努力すればいいというものではないと思う。学び方は主に3つあると思われる。

 まず、学習者の主体的な勉強の仕方だ。これは学習の基本姿勢であろう。2つ目は、先生との対話的な学習だと思う。主体的な学習を継続できている生徒を「対話」という方法でさらに上の段階に押し上げる学習のことだ。そして3つ目は、学習者の深い学習、限りなく研究に近い学習だ。

 このお寺に来る前は、主体的な学習方法をとことん進めて努力さえすれば何とかなるだろうと考えていた。でもそれだけではダメだということもこの数か月で気づいた。気づけたのは指導者からの「対話」であった。主体的な勉強は確かに大事だ。でも井の中の蛙、大海を知らず。このお寺に来てからは、隣室の修行僧が指南役として「対話」で気づかせてくれた。ありがたかった。

 

 お盆まであと2週間、自分の将来を切り開く強い志を掲げて、自分のこれからやりたい事、したい事を紙面にまとめ上げていくぞ!と心に誓った。

 

 何を目指すのか、何に挑戦するのか?

チャレンジャーであるという気概を忘れずに緊張感のある2週間を過ごした。

(つづく)

2018年

7月

29日

「自分を鍛える」高1、お寺での修行(その12)

 いつも通りの暑い7月だ。お寺の雑木林から蝉のにぎやかな鳴き声が、オーケストラのシンフォニーのごとく層をなして上から降ってくる。7月中旬からはじまったカナダのモントリオールオリンピックで日本選手団は大活躍し、日本国内はオリンピックで連日盛り上がっていた。

 ご住職からの宿題の期限は、2週間後の8月15日。私はB6版のカードを駆使し、そのアイデアの発酵を待ちながら、「将来、自分がやりたい事100ヶ条」を完成させようとしていた。昭和51年7月下旬だった。

 16才の高校1年生の男子。将来やりたい事は山ほどある。いつかオートバイに乗りたいとか、車を運転したいとか、空を飛びたい、飛行機を操縦したいとか、海外旅行に行きたいとか、苦手な器械体操をうまくできるようにしたいとか、学校の勉強がストレスなくスラスラできるようになりたいとか、英語をペラペラにしたいとか。

 いつの日か自分の仕事をしっかりやって、社会の中でとても小さいけど耐久性バツグンの歯車の一つになりたいとか、休日の余暇や趣味を充実させたいとか・・・。

 隣室の28才の修行僧に私のノートを見てもらったら、「やりたい事がたくさんあるんだね~ぇ。いいなあ、若いなぁ」と私を半ば揶揄しながら、ある人物の話を始めた。

 

 「海外への渡航が禁止されている江戸時代末期の日本で港が2つ開港されたよね、箱館港(函館)と下田港。開港はされたけど日本人が海外に行くことは当時禁止されていた。でも箱館港から外国船に乗って密出航しアメリカへ渡った新島襄という人、知ってますか?彼はアメリカに上陸した。そして大学を卒業した。帰国後は京都に今の同志社大学を設立した。」高校での日本史で明治時代初期の教育史に、1872年の学制、福沢諭吉の慶応大学、新島襄の同志社英学校(同志社大学)が出てくる。その新島襄だ。「彼はどうしてもアメリカに行きたかった。行こうと思った。なぜかと言うと1776年のアメリカ建国や、国としての制度や、キリストの福音(ふくいん)が自由に語られ教えられていることなどを知り、強い憧れを抱くようになったからだ。だからアメリカに行きたくて行きたくて、そしてついにアメリカに行った。そして学んだ。」

 

 「志というのは強い思いから発するもののことです。強固な志は、自らの未来を、将来を力強く切り拓くのです。」

 

 新島襄の話を聞き、私の志はどこにあるのか?どこを目指すのか?私はまだまだひよっこで、曖昧模糊な設計図しか持っていなかった。強固な志からはあまりにも遠かった。箱館でロシア人司祭からの勧誘を受けたにもかかわらずそれを丁重に断り、「アメリカ行き」にこだわって海を渡った新島襄の熱い心を知れば知るほど、私の心の温度は低く、全くもって貧困極まりなかった。

(つづく)

2018年

7月

28日

「自分を鍛える」高1、お寺での修行(その11)

 昭和51年の7月末、自分の将来について、やりたい事、やれたらいいなぁということを優先順位を付けて、全部で百個書き上げよというご住職からの宿題は、残念ながら未完成のままだった。が、その優先順位を付けるという過程で、様々な考えがドンドン浮かんできた。それを忘れないようにメモる。メモがどんどんたまってくる。メモがメモを生むかのようにあっという間に膨らんでいく。これは面白いなぁと思った。

 

 でもそれが逆に困ったこととなる。これらのアイデア、これらのメモをひとつの体系として整理していこうとすると、一体全体どこから手をつけていいものか、ただの一歩も進まない。これをある程度まとめれば、自分の考えている「理想とする自分の将来像」がかなり見えてくるはずだ。でも悲しいかなまとまらない。まとめられない。

 

 数日後、私は隣室の28才の修行僧にそれを相談した。「なるほど、いいことだよ。自分の頭で考えるということ、それは『模索すること』だ。大切なことだよね。生きていく、生き延びていく、自分の人生を全うしようと努力することだから。」とほめてくれた。そして1冊の本を貸してくれた。「知的生産の技術」という本だった。「梅棹忠夫という京都大学の先生が書いた本で、文化人類学の先駆者です。僕はこの本を読んでから梅棹先生の大ファンになり、京大の講義を『もぐり』で聴講したんだよ。いつもドキドキ、ワクワクした。講義内容はいつも面白かった。」同志社大学の学生だった頃の彼の武勇伝の一つである。

 

 1969年刊行の岩波新書だった。大ベストセラーになったと聞く。模索の体験を通して、創造的な知的生産のための技術がたくさん紹介されていた。例えば「B6版カード」の活用方法や、浮かんだアイデアの発酵のさせ方やそれを最終的に1本の論文へとまとめていく方法など、「へぇ、なるほど!」と感心することばかりだった。目から鱗が落ちるというのはこのことだと思った。B6版カードは「京大(式)カード」という商品名で現在販売されている。

 

 この「知的生産技術」を体験、体得したいので、早速書店に直行し、B6のカードを大量に買った。すぐ寺に戻り、たくさんのメモをカードにていねいに書き写していった。カード1枚にアイデア1つ。見出しもつけた。50音順に並べて保管し「発酵」を開始させた。

(続く)

2018年

6月

21日

麦秋が過ぎて

 「麦秋の候、いかがお過ごしですか。」

6月の上旬、梅雨に入る少し前に麦の収穫をします。この時期の手紙の冒頭、時候のご挨拶に「麦秋」という言葉が使われます。

麦が実って収穫の秋で「麦秋」というのだそうです。

 

 きょうは6月21日「夏至(げし)」。北半球で、昼夜の時間のバランスは、1年の中で夏至の日に昼が1番長く夜が一番短いという日です。麦秋を過ぎ、夏へと向かおうという頃、学校では1学期の期末テストを迎えます。

 

 テストは準備がすべて、です。

100回はできないかもしれませんが、繰り返し繰り返し問題をやりなおしましょう。せめて3回はやりたいです。

 そしてテスト3日前には、グレードを上げた勉強を。

教科書に戻ってテスト範囲の確認とやり残しをチェックしましょう。このステージは筆記用具はあまり必要ではありません。確認の段階です。

 

 期末テスト終了まで気を抜かずに、健康に注意して暑さにも負けず全力投球、お願いします。頑張ります。

2018年

4月

10日

「自分を鍛える」高1、お寺での修行(その10)

 高校1年生の昭和51年7月下旬、お寺のご住職との面談で宿題の宿題が追加された。最初の宿題で自分の人生で将来やりたい事、やってみたい事を100個書き上げたのだが、今度の宿題は、それらに優先順位を付け、優先順位の高い順に書き直せというものであった。優先順位を付けるには「基準」が必要となる。その「基準」はどうするのか?どのように決めたらいいのか?

 家庭の環境や地域、コミュニティの中で自分に合った「しっくりくるもの」というのが徐々に形成される。耕された畑に種がまかれ、発芽する。芽はどんどん生長し、花が咲き実となる。その過程を通して自分に「しっくりくるもの」を感じ取る。たとえば料理を作ることが好きだとか、本を読むことが好きだ、またはスポーツはやるより見る方が好きだとか。対人関係なら、多くの人と会ってお話をするのが好きとか、いや一人でおとなしくじっとしている方がいいとか。

 過去の経験を通して自分の物差しである「基準」が出来上がっていくのであろう。それを社会の常識に照らし合わせたり、先輩諸氏のアドバイスを取り入れて修正し、その「基準」は使えるもの、頼れるもの、守るものになると思われる。

 そもそも10代半ばの私にも「しっくりくるもの」はあるのだが、その正体は見えない。まだその「基準」があいまいで未完成なのだ。だから優先順位が決められない。基準があいまいなのは、物事の見方が未完成だからだ。まだ人間としての体幹が圧倒的に弱い。

 

 今回出された宿題は、その体幹をきたえ、己の基準を作り、人生の優先順位を明らかにすることなのだ。つまり「考えなさい。自分の頭で考えなさい。まだ考えることが不足していますよ。」という、ご住職からの教えと感じた。お盆まで約3週間ある。この3週間は徹底的に考えてみよう、自問自答してみよう。腰を据えてじっくり考えて考えて考え抜いて、優先順位を決めたい、そのためにも「その基準」を決め切りたいと強く思った。自分で自分を内省することだけを、多くの時間と労力を注ぐのは生まれて初めてのことだった。そしてそれはあたかも禅問答のように、問いかけ、思考、返答を繰り返す毎日だった。だが不思議なことに、それは苦しいけど1週間もすると楽しくなってきて、妄想に近いのだが、脳が暴走して思考が激走しだした。とめられない、とまらない。生まれて初めての経験だ。

 たのしくてたのしくて脳が遊びだした感じがした。どんどんアイデアが湧いてくる。すごく楽しい。涸れない泉のような状態だ。自分でもびっくりした。でもはたして優先順位は、つけられるのだろうか?まとまるのか?考えだすととまらないため、寝るために横になっても脳が遊びだし、眠れなかった。夏の暑さも手伝ってかなり睡眠不足になってきた。でも次から次へと頭に浮かぶ新たな考えにかなり興奮気味となり、ハイになった脳はとても熱くクールダウンは不可能だった。もう7月が終わる、大丈夫だろうか?はたしてお盆までに「宿題」は間に合うのだろうか、

 (続く)

2018年

4月

01日

新学期始動の合図

 今年の桜前線は例年より1週間以上早く北上したように思います。3月の中旬は雨が毎日ふりました。雨がやみ朝晩の冷え込みがおさまったと同時に気温がぐんぐんとあがり、草木がいっせいに芽吹き出しました。3月23日には岡崎公園の桜が開花し、あっという間に満開になりました。

 

 この写真は3月28日に撮影しました。岡崎市矢作町の東レ岡崎工場の北東の角の桜です。2本の桜が一体化して見事な樹形を見せています。私はこの桜を約50年間見ていますが、ここの桜が咲くと「学校が始まる」合図で、「よし、頑張ろう!」と今でもなります。

 素晴らしい平成30年度にしていきたいと思います。 

  Do my best and please do your best ! 

2018年

3月

19日

入試は冬、早春には合格発表

寒い冬に入試があります。寒さの中で受験勉強をし入試を経て、合格発表を迎えます。この冬は例年以上の寒さでした。その寒さを耐えていた頃に、合格を願い「人事を尽くして天命を待つ」ために、合格に掛けて五角形のキャンドルをプロのキャンドルアーティストに発注しました。(岡崎市にあるキャンドルハウスLintu : リントゥ)。五角形とサクラをモチーフに、祈りを込めて。ご覧のようにおごそかで美しい「合格祈りキャンドル」ができました。

 

 3月17日に中3の、18日に高3の「受験終了」パーティーで教室に飾りました。合格を待ち続けている「つくし」をそえて。(3/12のブログを参照)。

 

 私の塾は教室内に本格的なシステムキッチンがあるので、塾長自ら台所に立ち、包丁を握り鍋を振り、その手料理を食べてもらい、ひとりずつ改めて自己紹介をしてもらいます。将来の抱負を聞くのはワクワクします。そして外に遊びに行きます。カラオケ、バッティングセンター、ゴルフの打ちっぱなし、ボーリングなど。全部は行けませんがそのうちの2つ、3つで遊びます。今回もかなり楽しんでもらいました。

 

 そして今日は公立高校の合格発表。朝から車でまわりました。2校受験できるのでそのうちの1校へ行けば合否はわかるのですが、ことしの中3は1校のみの受験が数名いたので、例年と比べると合否確認の車での1周に、距離も時間もかかりました。1周78キロの3時間。

 

 「合格オメデトウ!」よくがんばりました。そして残念ながら希望のところ合格出来なかった人もいます。でもその真面目さ、誠実さとその努力は一番近くで見ていました。立派でした。

 

 さぁ次の新しいステージです。高く羽ばたいてください。でもたまには塾に顔を出してください。その元気な姿を見せて下さい。今まで特進サクセスに通ってくれてありがとう。感謝しています。高校でも通塾してくださいよ。

 

 早春をむかえました。多謝!

    (塾長 高原雅美) 

 

2018年

3月

12日

つくし待つ・・・

 きょうは、愛知県公立高校入試のAグループ入試でした。きょうは学力検査、あしたは面接です。きのう受験生として中3の最後の授業がありました。年のせいでしょうか、入試対策の授業を終えた瞬間、感慨深いものを強く感じました。合格してもらうために考え得るすべてのことをしてあげたい、はたしてそれをしてあげられたのか?どうなのか?

 中3は夏期講習から「受験勉強」をスタートさせます。去年の7月25日でした。そしてきょうは3月12日、約7ヶ月半、約230日、よく頑張ってくれました。勉強は習慣性と継続性が一番大切です。3週間で習慣性は身に着きます。100日間続けば継続性が保たれます。

 学校以外での勉強を家庭学習と言い、理想的な家庭学習時間は、中1は2時間、中2は3時間、中3は4時間です。ここの塾で一番頑張った中3の塾生は、4時半に塾に来て帰るのが10時でした。時間にして5時間半です。毎日です。それが200日以上続きました。立派です。あっぱれです。

 

 そして冬が終わり、春が近づいてきました。きのう塾の敷地内に春を見つけました。土筆(つくし)です。すでに大学入試は終わり、残る高校入試も明日の面接で終了です。

 

 合格発表は3月19日(月)。受験生のみなさん、インフルエンザにもかからず、風邪も引かず入試までよくがんばりました。おつかれさまでした。明日からは高校の予習をやります。17日は受験終了パーティーです。楽しみにしております。ここで一句、

 

「合格を 直立不動で 待つ土筆」

2018年

2月

25日

「自分を鍛える」高1、お寺での修行(その9)

高校1年の7月から12月まで、お寺に生活拠点を移して私の「修行」が始まった。自ら志願してお寺での住み込み生活をお願いし許可していただいたので、わがままは絶対言えないので、早く慣れて、分からないことはどんどん質問し、自分のすべきことを責任持ってやっていかなくてはならないと心に決めてから約1ヶ月が過ぎた。夏休みに入り、部活と補習があるくらいで学校は忙しくはなかった。

 ある日の朝、ご住職から「高原君、今度ゆっくりお話をしましょう」とお声がかかった。「きょうの午後は空いてますけど・・」と返事したら「それはいい。私も空いてます。2時でどうですか?」「大丈夫です。分かりました。」「では2時に、前にあなたに出した宿題を持って私の部屋に来て下さい。」面談の日時が本日午後2時に決定した。

 私のきょうの予定は午前の部活だけだった。自転車での通学時間は約30分。登校時も下校時も頭の中でご住職との面談のシュミレーションをずっとやった。下校時の道程は短く感じ、あっという間にお寺に着いてしまった。遅い昼食を取るともう約束の時間になった。

 

 「失礼します。高原です。参りました」しばらく間があって「どうぞお入りなさい。」

ご住職の居室は和室だった。勧められた座布団を脇に寄せて畳の上に正座した。

「心がずいぶん落ち着きましたね。慣れるのがとても早かったです。お経を読む声も大きくてハリがある。いっそ仏門に入りませんか?僧侶になりませんか?」と笑顔でおっしゃった。

「いえいえ、とんでもないです。おそれおおいです。」「そうですか?そんなことはありませんよ。まぁ、寺の坊主になる覚悟が出来たら教えてくださいね。ところで私からの宿題は出来ましたか?」「はい、持って参りました。」持参したノートを両手で渡した。

 

 およそ10分間、点検するかのごとく、じっくりと、黙ってノートをめくられた。わたしはご住職の顔をずっと見ていた。せみの声だけが聞こえてきたが私の中で沈黙の時間へと変わっていった。汗が急にふきだしてきた。丸裸にされるように感じた。ご住職はノートの中を全てお読みになられた。

 

「いいと思います。だいたいできてます。いいです。」

 

びっくりした。合格したのか?はたまた不合格なのか?

 

「第1段階は合格ですね。」(合格だ、うれしい!でも・・・?) 

(だ、だいいち、第1段階!?)

 

「高原君、次の宿題を出しますね。このノートの中の「将来やりたい事100か条」に優先順位をつけてみてください。一番やりたい事から順に1、2、3と、数字を打ってみてください。それが宿題です。」

 

 書き出すだけでも頭の中から絞り出すような作業だと思ったが、さらにこの箇条書きの一つ一つにやりたい順に数字を打つのは大変だ。難しいことだ。大学に行きたいとか、学校の先生になりたいとか、海外旅行にいきたいとか、はたまたオートバイに乗りたいとか、頭に浮かぶことを、死ぬまでにこれだけは是非やりたいという事は書き出した。それに序列というか順番を付ける作業は、何を基準に決めればいいのか?

 

「高原くん、お盆休みまでにノートの中に優先順位をつけて私にみせてください。お願いですよ。約束ですよ。」とご住職から第2段階の宿題をいただいた。

 

物事を決定するためには情報が必要だ。その情報に基づいて、知識、理解、予算、価値など総体としてとらえ、最終的に自らが決定しなければならない。何を優先させるか?優先させるべきか?プライオリティ(priority)の決定は本人の人生観によって決まる。

 

「決めれますか?お盆までにですよ!」

 

ご住職の問いかけに返事が出来なかった。

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

2018年

2月

04日

節 分

 きのう2月3日は節分でした。季節の分かれ目なので、暦の上では冬の最後の日ということになります。我が家の恒例行事として節分会に岡崎天満宮に行き、ご祈祷を受け、豆まきを本殿で行ってきました。

 私は保育園児の頃、「鬼は外」は言えるのですが「福は内」が言えず「ちくわ虫」となり、まわりが爆笑するので逆におかしくて夢中になって「ちくわ虫」と絶叫しながらの豆まき。強烈な年中行事でした。

 

 そしてきょうは立春。

受験生は入試の真っ只中、「合格」をきのう祈願してきました。平常心で受験を乗り切って、おだやかな「春」を迎えてほしいと思います。

2018年

1月

21日

「自分を鍛える」高1、お寺での修行 (その8)

夏休みが近づいてきた。二者懇談で保護者会があり、母が出席した。母はおしゃべり好きだが、私が家を出てお寺で居候をしていることは担任には話さなかった。担任は、男性の英語の先生で、人間的な奥行が物凄くある、重厚で穏やかな先生だった。私は小1から高1までで、このタイプの先生に会ったことがなかった。とても信頼できる先生だったが、母はおしゃべりにもかかわらず、相手が他人の第三者の場合には余計な事は一切話さない主義だったので、保護者会後に担任から私のあれやこれやを質問されることは全くなかった。でも「高原ら~ぁ、お前の目、最近いいなあ。授業中は特にいいなあ。心が充実しとるのかなぁ、背筋がピシッとしとる。いいか、それを継続させて、部活動も勉強も頑張れよ!」と声を掛けてもらった。自分で意識してやっていることではなかったが、精神的に安定してきたのは感じていたので、評価してもらえたのは素直に受け取れたし、うれしかった。

 

 精神的にたくましくなってきたのは、第一にお寺での修行がきっかけになったことが挙げられるが、第二、第三の原因もあった。家庭学習の総量が増えたことによる充実感や学習するモチベーションが高くキープできたことや、読書量も増えた。これは隣室の「上のお兄ちゃん」の影響が大きかった。28才のこの修行僧は読書家で、1日1冊のペースで文庫本を読み、その本を私に回すのだ。この時期に梶井基次郎、夏目漱石、森鴎外、太宰治、芥川龍之介、伊藤整、三島由紀夫など次から次へと読破した。読書の楽しみが無限にどんどん広がって行く。楽しかった。特に寺に寝泊まりして読む、輪廻転生の物語、三島由紀夫の「春の雪」は、「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」と輪廻転生が続き、この『豊饒の海』四部作を読み終えた時は、この作品が持つ不思議な世界観と「つながり」の物語性に、深いため息をしながら何とも言いようのない読後感を初めて経験した。

 

 規則正しい生活を通して心が整ってくると余裕がでてくる。今まで見えなかったものが少しずつ見えるようになってくる。見えてくるとそれを追求したくなる。それを少し追求しだすとそれがまた面白くなってくる。それって自分が今後やっていきたいことなのではないか?はたまた興味関心がただ高まっただけなのか?どちらにせよこれは面白そうだな、やってみたいなぁ!と思えることが少しずつ姿をあらわし出した。

 

 以前住職から私へ出された宿題の「将来やってみたいこと100か条」(このシリーズのブログ、その5を参照)が書けるかもしれない!と思い、急いでノートを広げてメモった。

 

 「考え」いうのは、考えが考えを生み、それが妄想になり、堰を切った洪水のようにどーっと速度を増してみるみる広がって行く。だから忘れないうちにメモる。優先順位を付けずひたすらメモる。箇条書きでどんどんメモっていくと60ぐらいになっってきた。

 

 自分の興味関心や将来的な志向は、紙に書いてみるとよく分かる。これは住職が私を導いてくれる証だと思った。まだ60ぐらいの「100か条」、それ自体は自分の内面からの自発的な欲求だが、これはご住職のお導きそのもので、私の中から殻を上手に破って、そっと引き出してもらえたことがとてもありがたかった。指導者の力はすごいと思った。自分が住職の掌(たなごころ)の上に乗っかっていて、その上に今は居るけど、ここで成長し、いつか分からないがこの寺を出ていく日がいずれやって来る。七転八倒して、もがくだけもがいて脱皮するのだ。たぶんそれが私の、ご住職に対する一番の恩返しになるのだと思った。

 

 「指導者の力」は、人の人生を変える力を持つ。この「指導者の力」は、その言葉の重みを増しながら、強くて正しい「指導者」になりたいなぁと思うようになった。だから「100か条」もすぐに書けそうに思えた。が、それは思えただけだった。10代の、「若気の至り」だった。

(つづく)

2018年

1月

10日

自分を鍛える      高1、お寺での修行(その7)

 お寺には小5から80歳までの修行僧がいたが、その中に高校生もいた。この寺は尼寺ではない。したがって女性はいない。女性がいないので、男たちだけで食事や洗濯や掃除や五右衛門風呂の焚き付けなど、家事全般をこなさなければならない。

 

 私も自分の洗濯は自分でやるのだが洗い終わって干している時に、「それは方角が違うなぁ.。縁起悪いなぁ。」と若い僧侶が微笑みながらこちらにやって来た。「あのさぁ、ワイシャツはさぁ、ボタンがあるでしょう?それが前側。前・後ろがあるものは、前が南を向くように干さんとあかんよ!それが何故だか、分かる?」と言いながらハンガーにつるされた私のシャツを干し直した。北向きが南向きになった。「分かる?わかんない?」。こぼれ落ちるぐらいの満面の笑みをたたえて私の目をのぞき込んできた。

 彼は定時制高校に通う1年先輩だった。私が全日制の1年生で彼は同じ高校の定時制の2年生だった。わたしが部活を終えて帰るころに、彼は登校してくる。滋賀県の愛知(えち)郡のお寺の出身で、高校1年から愛知県岡崎市のこのお寺に修行に来た。昼はお寺で修行、夕方から高校に通うのだ。

 

 「漢文でならってない?北向きは敗北を表すって。敗北とは、負けて逃げる、という意味だから。」

 

 あっ、確かに習った、習った。北は、方角の「北」という名詞の他に、「ル」と送り仮名をふると、「北ル」(にげルと読む)(逃げる)という動詞になるって高校で確かに習った!

 

 この「干す時の方角事件」(大袈裟!)がきっかけで私たちは仲良くなり、朝のお勤めのあとの掃除で1回、夕方の学校で1回、就寝前に1回と、1日に計3回は言葉を交わすようになった。その会話は日常の何気ない出来事から将来のことまで何でも話し、打ち解けた雰囲気があった。それはとても楽しく、リラックスできた。学校の定期テストの前に勉強を教え合ったりもした。

 

 私にとって隣室の28才の僧侶は「一番上のお兄さん」だったが、定時制の彼は「ほんの少し上のお兄さん」になっていた。まだ暑い暑い7月だった。この二人の兄の助けもあり、私の修行はその基底部が少しずつ出来上がっていった。一人では形作れなかっただろうなぁと今になってそのありがたみを思う。人は一人きりでは「人」にはなれない。頑張っている人には応援してくれる人がどんどん増えていく。さぼったり怠けたりすればその応援団は去っていく。本気で頑張っていれば応援団から大きなエネルギーがもらえるということを、私は気づき出した。

 

 この応援団を裏切らないように、努力、精進すべきなのだ。真面目にじっくり、地道にコツコツと積み上げていくぞ!という思いが「力強い覚悟」に変化しだしていった。

(つづく) 

2018年

1月

02日

1年の計は元旦にあり

 明けましておめでとうございます。特進サクセスの塾長の高原雅美です。今年もよろしくお願いします。

 「一年の計は元旦にあり」と申します。新しい年が始まりまったばかりの正月元旦に志を高く掲げ意気込みも新たに今年一年の計画を立案します。

 

私の一年の計は3つあります。

1.受験生の合格

2.塾生の成績アップ

3.週50㎞のランニング

 

1の「合格」は塾の使命ではありますが、それ以上に気をつけていることは、受験が終了するまで万全のコンディションを維持させることです。身と心のバランスをとることがポイントです。(緊張)

 

2の「成績アップ」は、全塾生の人間的特徴を把握したうえで、生徒の皆さんの現在の状況を一皮むき、ワンランクアップさせることです。全員を前進させたいと思います。(楽しみ)

 

3は「週50㎞」のランニングです。1980年代東京での学生時代、1周5㎞の皇居外周をよく走ってました。マラソンのトップランナーの瀬古選手がその当時、皇居を毎日走っていました。ものすごいスピードで走っていました。フルマラソンを2時間10分以内で走る世界レベルの選手です。わざわざストップウォッチを買いに行き、瀬古選手のラップタイムを計測したものです。すると自分の中でだんだん走りたくなってきたので試しに皇居を1周走ってみると、これが楽しくて楽しくて・・・。ミイラとりがミイラになりました。1週間で計100㎞以上が当時の私の目標でした。皇居20周です。あれから既に30年以上が経過したので100㎞はあきらめ、半分の50㎞にしました。もちろん皇居でのランニングではありません、岡崎と安城で頑張ります。(ランナーズハイ)

 

 何事も、毎日を地道にコツコツと積み重ねて行こうと思った「平成30年の元日の計」です。写真の龍潭寺の御仏と、私自身と、この駄文をお読みくださった皆様に,これを誓います。

 

 どうぞ今年もよろしくお願いいたします。

 

    塾長 高原雅美

 

 

 

 

 

進学予備校(小2~高3)

特進サクセス高木校です

0566-77-0039

 

コロナに 負けるな! 

手洗い、マスクの着用を!

詳細は「感染症の対応」をご覧ください。

 

2020年

8月

11日

外山滋比古先生が逝かれました(追悼)

 

 

 東京都文京区小石川のご自宅から勤務校のお茶の水女子大学まで徒歩で行かれる。所要時間は約7分。春日通りの横断歩道で信号待ちに引っかかれば、私のチャンスは約1分増える。

 

 秋に行われる寮祭の主催学年である私は、寮のOBである外山先生にカンパをお願いしようと考えていた。1985年(S60年)の秋、今から約35年前のことである。

 

 我々の学生寮は、愛知県の三河地方出身者が入寮する「三河郷友会学生寮」という学生寮である。出身地が同郷のため、全員がネイティブの三河弁だ。その三河寮の2階の洗面所の窓から南方に目をこらし作戦を練った。

 

 外山先生はその頃、ほぼ毎日同じ時間、同じ道でお茶の水女子大学に歩いて行かれる。その歩くスピードはびっくりするほど速い。ここから見えるのは、ほんのわずかな時間だ。視野に入ってから消えるまでは数秒間。この建物の窓から、何度も何度もそのお姿を今までずっと拝見してきた。

 

 私は外山先生を「小さな巨人」と呼んでいた。身長が低かったことからそう名付けた。今思えば大変失礼な話だ。小さな巨人は、背広姿に大きな黒いカバン。そしてインパクト満点の黒ブチの眼鏡。「知の巨人」は小柄だった。

 

「外山先生、おはようございます。お急ぎのところ、すみません。ちょっとよろしいでしょうか?」信号がちょうど赤になった。

 

 「三河郷友会学生寮の寮生の高原と申します。おはようございます。実はもうすぐ寮祭ですのでOBの方々にカンパしていただけたらと思い、礼を逸してることはじゅうじゅう承知しておりますが、意を決してお願いにあがりましたぁ。」

 

 勢いが肝心だと思い、淀むことなく、大きな声で、力を入れて申し上げた。 

 

 1983年に刊行された「思考の整理学」は、その年の大ベストセラーだった。大学生協で平積みされた単行本は、口コミも手伝って月が変わるごとにその販売面積を増やしていった。

 

 『学校教育はグライダー人間を作りすぎ。自分のエンジンを搭載し自分自身で飛べる飛行機人間を育成すべきだ、その目的に対して最も大切なことは思考力というエンジンだ。そのエンジンを持たなくてはならぬ。そのためには考えるということを大事にしたい。考えて思いついたアイデアはカードに書こう。そして発酵するまで待つべし。

 

 起床後からお昼までの午前の脳の活動は思考活動にはもってこいだ。無我夢中、散歩中、入浴中の三中は思考には最適。etc・・・』

 

 数年後には文庫本となった。いつしか大学生の必読書のランキング上位となった。甲子園で活躍した根尾選手が2019年の秋、中日ドラゴンズにドラフト1位で入団契約した際、愛読書を問われ、外山先生の「思考の整理学」と答えたことで話題となり、彼はは大いに株を上げた。

 

 「三河寮ですかぁ。はい、わかりました。今お時間、ありますか?」

 

「もしあるんだったら、このまま私の研究室まで一緒においでん。いそいどるもんで、時間がないんだわぁ・・・」

 

 「えっ!!研究室??」

 

 お断りする理由などあろうはずがない。コテコテの三河弁の先生のあとをノコノコとついて行った。

 

 お茶の水女子大学の先生の研究室に、恐る恐る足を踏み入れたあの緊張感と幸福感。「ハイっ」と渡された寮祭へのカンパ。両手で押し頂きながら拝受した。

 

 もちろん先生のご自宅の住所、所在は知っている。わが学生寮のご近所。しかしご自宅にお伺いすることは絶対にしてはいけないと思っていた。執筆などのお仕事の邪魔をしてはいけない、筆を折るような野蛮な訪問は決してできない。先生の書斎から綿々と生み出される研究成果を阻害するようなことは絶対にできない、許されない。思案の末、「徒歩での通勤途中」にお声をかけさせていただくことを決定した経緯などについて申し上げた。勢い余って「思考の整理学」と「省略の文学」の、自分なりの書評をも生意気にもお伝えしてしまった。蛇足だった。でも先生は黙ってうなづいておられた。笑顔だった。目がやさしかった。

 

 私はとてもハッピーだった。カンパをいただけたからうれしいのではない。カンパを頂くというミッションを完遂した上に、尊敬すべき偉大な人物の許しを経て、大学のご自身の研究室である「聖域に入ること」ができたことが、恐れ多くもうれしかったのだ。強烈なカタルシス(魂の浄化)があった。

 

 先生はいつも微笑んでおられた。愛知県の西尾で生まれ、大学生として上京されてからはずっと文京区小石川で生活された。そうして年月が過ぎ、300をこえる著書が刊行された。そのどれもが輝きを失わずに、新鮮で鮮烈な閃光を放っている。どれを読んでも面白い。借り物ではなくオリジナル、古くなく新鮮。本物だからであろう。

 

 近著では「三河の風」(2015年展望社)は特に素晴らしい。明治維新後、愛知県三河地方は明治政府から冷遇された。徳川家の発祥の地だからだ。地元民は政府に頼ることなく、自力で、自分たちだけでやっていこうという独立独歩の気風、風土が醸造されていった。その中で自分らしく、かたくなに生きていくことを学んだ。その生き方は、あたかも蚕(かいこ)に似ている。三河地方は養蚕が盛んな土地で、農家は屋根裏で蚕を大事に育てた。蚕に「お」をつけて「お蚕さん」と呼んで大事にした。蚕は桑の葉を食べて白い糸を吐き、繭(まゆ)を作る。色のついたものは色あせるが、白い繭は色あせることなく純白の糸となる。だから「蚕のように私は生きていきたい」という、「三河人」外山先生の強い信念に、共感を覚えずにはいられなかった。

 

 また健康維持のため、皇居一周約5キロを、ご高齢にもかかわらず毎日散歩される外山先生のテレビ番組を数年前に見た。たぶん「三中」の散歩に違いないと思ってそのお姿をテレビの画面越しに拝見した。その先生が2020年7月30日、胆管ガンで亡くなられた。享年96

 

 今週はお盆がくる。先生にとっては新盆だ。わたしは自分の塾で夏期講習の授業をする。中学生の夏期講習用の国語のテキストの問題文は、長田 弘(おさだ ひろし)、小此木 啓吾(おこのぎ けいご)、串田 孫一(くしだ まごいち)など、そうそうたる方々の文章だが、この30年間、学習用のテキストや大学入試の現代国語の問題文への登場機会ダントツのトップは言うまでもなく、外山先生だった。そしてこの先の30年間もたぶんそうあり続けるであろう。知の巨人は死なず、永遠なり。

 

先生、お世話になりました。

先生、本当にありがとうございました。

先生、同郷人として誇りに思っておりました。

先生、これからも今まで以上に先生の文章を精読していきたいと思います。

先生、安らかにおやすみください。本当にありがとうございました。

 

心よりご冥福をお祈りします。 

( 合 掌 )